マルクスの労働観をめぐって

はじめに

 『資本論』第三部最終編の四十八章「三位一体的範式」において述べられている労働観は、マルクス自身の初期のものとは一見大きく異なっている。
 『経済学・哲学草稿』(Marx,1932、 以下、『経哲草稿』と略記)においてマルクスは、ヘーゲル同様労働=対象化を人間活動の本来的なありかたと考えるが、私的所有に基づく階級社会において労働は疎外されて営まれることになると批判したうえで、将来社会において労働はその本来の姿をとり戻し、人間は真の自由を享受することができるという展望が示されていた。
 ところが上記『資本論』では、もし「社会化された人間、連合した生産者たち」による生産の合理的統制によって、人間性に最も適合したかたちで物質代謝がなされるなら、その点にのみ自由がありうるとしても、やはり本質的には「依然として必然の領域」であり、「自由の領域」の開花のためには「労働日の短縮は根本条件である」と述べられているのである(Marx,1867-94,S828)。

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 柴田敬〔註1 〕は、『資本論』でのマルクスは彼自身の初期の考えと矛盾し、マルクスには二つの労働観があるのではないかという指摘を行っている。人間にとっての真の自由が発揮されるのは労働という必然の領域においてではなく、その彼岸においてであること、したがって労働日を短縮することこそが自由の実現のための基本条件であるとする『資本論』第三部の考え方は、労働を通じての人間の自己形成の意義を強調する初期マルクスの見解と真っ向から対立する――このように柴田敬はマルクスを批判する(柴田、1966,pp60―68)。
 柴田は、若きマルクスは生産的労働は人間だけがなしうるものだから人間は喜んでそれをなすべきであり、そのときに初めて人間は自由になりうる、これに反して消費生活において初めて自由がえられるかのように考えて行動するなら人間は動物になってしまうと考えた、と解釈する。柴田によるとこれはすばらしい洞察である。
 ところがマルクスはこのことをゆがんで考えた。すなわちマルクスは生産的労働を「目的」として行うべきで、そのとき初めて人間は「自由」になりうると考えたが、生産的労働とはもともと「手段」――生産手段、消費手段――を生産するもので、目的ではない。マルクスはこのことに気づき、資本論第三巻に至って生産的労働はどんな生産関係のもとでも手段として行うしかないが、この必然の世界では人間は自由たりえず、必然の向こう側(消費の世界)で自由になれる、とした。しかしこれは若き日の消費目的=動物化という考えと矛盾する、と。
 柴田は言う、生産的労働はしょせん手段的なものである。その本来的に手段的な労働を喜んでしうるようになるときにはじめて人間は自由になるべきであろう。すなわち真の人間解放は生産的労働のなかに喜びを感じることだ、と。そして労働に幸福を見出すためには適度な消費生活と余暇が伴っていなければならないが、それ自体に幸福を求めようとする人間は人面獣になってしまう、と。

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 かつて大熊信行は次のように論じたことがある。労働が費用であるのは労働が苦痛であるからではなく、労働の提供そのものが費用であるからだということ、なぜ労働の提供そのものが費用であるかというと、それは労働が人間にとって分量上有限な時間の割愛であることにもとづくからであり、このように解することによって、労働それ自体が快楽であれ苦行であれ費用なのだと考えうることで、労働を正当に価値論の根底に据えることができるとともに、労働以外の生活活動と労働との均衡を問題にしうる展望が開ける、と(大熊、1927,pp89―110)。
 杉原四郎〔註2〕は、1857年から58年にかけて書かれ戦後公刊された『経済学批判要綱』(以下『要綱』と略記)――D.マクレランは、初期マルクスの根本思想が後期マルクスに継承されていることを示す「見落とされていた環」(Mclellan,1970)と呼んでいる――に注目し、大熊論文を参照しつつ柴田批判に答えようとした(杉原、1973)。
「社会が小麦や家畜などの生産に必要とする時間がすくなくなればなるほど、より多くの時間が、それ以外の物質的ならびに精神的な生産のために獲得されるわけである。個々人にとっても同様に、社会全体にとってもまた、それが、享楽の面でも行動の面でもすべての面で発展しえるかどうかは、時間の節約にかかっているのだ。時間の経済、すべての経済は結局そこに解消される。」(Marx,1953,ss89―90)
 杉原は『要綱』のこの「時間」論を時間=費用論として注目する。
 『要綱』においてマルクスは、ディルクという人物のパンフレットを引用し、「自由に処分できる時間こそ人間にとっての真の富である」というディルクの考えを発展させた。人間が一定の生活時間を労働と非労働的活動との二つの異質的な領域に配分しなければならず、しかも後者への配分をより大にすることが人間の発展にとって望ましい以上、労働の生産力の向上による労働時間の短縮が人間開放の根本条件となるわけで、マルクスはこの点を明確にうち出すために、人間生活を自由と必然の二つの領域に峻別し、労働を必然の領域から把握することによって、労働が本質的にもっている費用的手段的性格を浮彫りにしたのである、と杉原は論じる。
 しかし注意しなければならないのは、と杉原は言う。「マルクスはここで人間生活の二領域を区別し対比しているだけではけっしてなく、同時に両者の有機的関連をおさえているということである。このことは、彼が、必然の領域の彼岸において真の自由の領域がはじまるとしながら、それにつづいて『がしかし、その自由の領域は、かの必然の領域を自分の基礎としてのみ開花しうる』と書いていることにもしめされている」、そして、この「基礎」とは物的富のみを言うのではなく、「人間は労働の戦果として生産物と自由時間とを獲得するのだが、それらを真に人間的に活用する能力もまた、この戦いを通じてはじめて獲得されるのだ。してみれば必然の領域は、自由の領域に対して、単に物的富と自由時間という客体的素材的条件を生み出すのみならず、人間的文化を創造し享受しうる主体的条件をも準備するものといわなければなるまい。」(杉原、p135)
 杉原の「労働と非労働的活動」というのは、「資本論」での用語に従えば「必要に迫られて行う労働」と「それから解放された自由な活動」ということになろう。そして柴田敬の用語法に沿って言えば、労働を目的から手段に変更したのではなく、労働を二つに分けて「必要に迫られて行う労働」を「手段」、「自由な活動」を「目的」としたのである。
 マルクーゼは『エロスと文明』において、労働を「疎外された労働」と「疎外されない労働」とに区別し、前者を狭義の「労働」、後者を「仕事」と言い換えた上で、フロイトのリビドーを後者に関連づけて、仕事が遊びと一体となり、エロス的なものとなることを夢みているが、後にはペシミスティックになっている(Marcuse,1956)。「疎外されない労働」という表現はマルクスにはないものだが、「必要から解放された自由な活動」がこれに該当すると考えることができるだろう。
 今村仁司はこれまでの労働観について、生産と労働の取り違えを批判する。前者を「対象化労働」、後者を「非対象化労働」あるいは「非価値的活動」と名付け、後者の「価値的世界」からの解放を考察する。今村は同一労働の二側面として「対象化労働」と「非対象化労働」を考え、労働のあり方の変革を考えているようだが、この両者は時間的空間的に別ものであり、前者を減らし、後者を増やしていく変革を考えるしかないのではないか。(今村、1992)

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 欲求と労働との相互媒介的促進作用について『ドイツ・イデオロギー』に「満足された最初の欲求そのもの、満足させる行動、および満足のためのすでに手に入れた道具があたらしい欲求へみちびく」という叙述があり(Marx,Engels,1958)、また、前述の『資本論』第三部の自由の領域の基礎としての必然の領域について述べた部分に「人間の発展につれて、欲求が拡大するにつれて、この自然的必然の領域が拡大する。だが同時に、この欲求を充たす生産諸力も拡大する。」とある。
 このように欲求と労働との相互媒介的促進作用について、マルクスは初期から後期へと一貫して肯定的に――自己形成してゆく過程にある人間の重要な契機として――述べている。そして杉原が言うように、結果として「享受の能力ならびに手段」が発展してくることになり、それらが「ふたたび最大の生産力として労働の生産力に反作用する」ことは自由の領域と必然の領域が無関係でないことを表しているわけである。
 和田春樹は、「各人にはその必要に応じて」という共産主義社会の理想は、欲望のコントロールという問題と結びついており、初期社会主義者サン・シモンがキリスト教に回帰する最大の理由はそこにあった。宗教を拒絶するマルクスにとって、必要に応じての分配を保証するものは基本的に生産力の増大だけということになろう、と述べている(和田、1992、p51)。すると人間の欲望に限りがないのなら、生産力の増大の必要も限りがないことになり、その相関次第では必然の領域は終わらないことになるだろう。
 『ゴータ綱領批判』において、「労働がたんに生活のための手段ではなく、それ自身生活の第一の要求となった後」と初期の肯定的労働観が再現しているが、そこでは「分業のもとへの諸個人の奴隷的な従属がなくな」ることが前提となっている。初期のマルクスは必ずしもエンゲルス的な分業廃止論には組していなかったようだが(マルクスは分業=交通(人と物の交流)の発達=生産力の上昇=新しい社会への準備という歴史観を提示している)、後期には未来社会における分業の廃止を掲げるようになる。しかしそこで述べられている「必要に応じての分配」を保証するものが基本的に生産力の増大であるとすれば、分業の廃棄は生産力の増大と相容れない。マックス・ウェーバーは近代社会(社会主義を含め)では専門化すなわち分業は「合理化」としてますます進行すると見ている。
 カール・レーヴィットは言う、市民社会の除外例たる無産者階級から汲み出されたマルクスの新しい、普遍的な、「人間的」な人間という彼の理念において、示されるのはなんら新しい人間的な内容ではなくて、市民社会の原理の徹底的な遂行だけである、「人間の普遍的な本質が、人間が『もろもろの欲求の主体』、自分のために自分の世界を労働によって生み出すべき主体であるということにだけ存するならば、人間をおしなべて人間にするものは、反資本主義的な種類のものにしろ、純粋に生産そのものである」(Lowith,1967、訳書p143)、と。
 マーティン・ジェイによると、ホルクハイマーは啓蒙主義の伝統を批判したが、暗黙のうちにマルクスを啓蒙主義の伝統の中に置いた。マルクスは、人間の自己実現の様態として労働を中心的なものと過度に強調した。ホルクハイマーに従えば、マルクスの後継者をもって自認するものたちによってなされた抑圧的なテクノロジーの悪夢のような結果は、マルクス自身の著作の内在的論理とまったく切り離すことはできないものであったということになる。(Jay,1973、訳書pp377―378)

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 柴田敬が一時師事した河上肇は、マルクス主義者に転進する以前の著作『経済と人生』において、分業による生産力の発展と社会の進歩との相関関係を説いて、「労働時間の如きも将来益々短縮せられ、人生は『文明生産の為めに費さるゝこと益々少うして『文明消費』のため其の大部分を献げ得らるゝに至らん」と述べ、「経済社会の理想は人をして経済行為てふ労働の苦を忍ばしむること無うして、只だ偏に消費行為てふ充欲の快を享けしむるに在る」と論じている(河上、1911、pp1―46)。
 このような理想を実現するべく河上は社会主義の必要を確信するに至るわけであるが、共産主義社会においては「固定的な分業が廃止」され、「もし社会のすべての成員が労働を負担するようになれば、労働の強化につれて行われる労働時間の短縮は、殆んど限りなきものがあろうということ」と述べ、労働時間の短縮による生産物の減少は、労働強度の増進に基づく生産増加によって補償されて余りある、としてマルクスの「真の自由の王国」について「各個人の自由なる・精神的および社会的の・活動のために獲得される部分の時間」がこれに属すると書いている(河上、1951-2,p719)。
 ここでは生産力の増大と欲求の増大との相関の考察が抜けているが、「自由なる・精神的および社会的の・活動」を人間の目的として、そのためには社会主義の下で「労働負担の分担」を基に「労働時間の短縮」が追求されるべきとなるわけである。

〔註1 柴田は最初河上肇の弟子として、ついで高田保馬の下で研究者生活を開始したが、森嶋通夫によると、戦争中柴田は激しく右傾化してすぐに高田の下を離れ、戦後は右翼をいち早く離脱した(森嶋,1999,pp203―204)。〕
〔註2 杉原はマルクスと並んでJ・S・ミルや河上肇の研究者として知られ、柴田敬の門下生であるが、柴田は「河上肇先生の隔世遺伝のように思われる杉原四郎君」(柴田、1987)と評したことがある〕

参考文献

Jay,M.1973.The Dialectical Imagination, A History of the Frankfurt school and the Institute of Social Research,1923―1950. 荒川幾男訳『弁証法的想像力 フランクフ ルト学派と社会研究所の歴史 1923―1950』みすず書房,1975.
Lowith,K.1967.Gott, Mensch und Welt in der Metaphysik von Descartes bis zu Nietzsche,Gottingen.柴田治三郎訳『デカルトからニーチェまでの形而上学における神と人間と世界』岩波書店,1965.
Marcuse,H.1956.Eros and Civilization;A philosophical Inquiry into Freud,London,The Beacon Press. 南博訳『「エロス的文明 』紀伊国屋書店,1958
Mclellan,D.1970. Marx and the missing link, Encounter.
Marx,K. 1932. Okonomisch―philosophische Manuskripte,MEGA 1 Abt. Bd.3.三浦和男訳『経済学哲学手稿』青木文庫,1962.
――.1953.Grundrisse der Kritik der Politiscen Okonomie.Dietz Verlag,Berlin.高木幸二郎監訳『経済学批判要綱』大月書店,1958―65.
――.1867-94.Das Kapital,Kritik der Politischen Okonomie,Werke,Bd.23―5.長谷部文雄訳『資本論』青木書店,1951―4.
Marx‐Engels.1958.Die deutsche Ideologie,Werke,Bd3.『ドイツ・イデオロギー』真下信一ほか訳,大月書店『全集』第三巻.

大熊信行.1927.『社会思想家としてのラスキンとモリス』新潮社,論創社, 2004.
河上肇.1911.『経済と人生』実業之日本社.
――.1951―2.『資本論入門』青木文庫.
柴田敬.1966.『経済学原理』ミネルヴァ書房.
――.1987.『増補 経済の法則を求めて』日本経済評論社.
杉原四郎.1973.『経済原論Ⅰ―経済学批判序説―』同文館.
今村仁司.1992.「非対象化労働論」『現代思想の基礎理論』所収.講談社学術文庫
森嶋通夫.1999.『なぜ日本は没落するか』岩波書店.
和田春樹.1992.『歴史としての社会主義』岩波書店.

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