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「カナダびいきジイサン随筆抄」【自分の慢心を大いに諫められた4月12日朝の出来事】 

私が知る限り、私の家系の者で、今の私より長生きした人はいないと思っている。私の父は61歳で亡くなった。母は64歳。私の二人の姉は、わずか3歳と5歳である。近しかった母の妹の家系、私の二人の従姉妹も、私の記憶では60歳台で亡くなったと思う。母の妹である叔母さんは、もしかすると今の私に近い年齢まで生きていたかもしれない。

血圧とかコレステロールとか、前立腺だとか、いろいろな健康上の諸問題を抱えつつも、医師の処方した薬で対処してきて、これまで結構、元気でやってきた。とうとう来年は80の大台突入を迎えようとしている。

20年近く前から始めた週一(土曜日)ハイキングが、5年ぐらい前から平均的に週3回、近場のハイキングトレイルを同好のシニアたちとするようになった。これは1年を通して実行してきている。

実は、私はまだこの年齢になっても仕事をしている。自宅の一室で、電話というかインターネットを使っての仕事なので、体力的には負担にはなっていない。しかもフルタイムなどではなく、週24時間、あまり忙しくない時間帯を選んでやっている。この仕事は、一種のカスタマーサービス的な通訳業であり、多くの場合、あまり頭を使わなくても対応できるが、場合によってはかなり難しいケースにも出くわすことがある。いずれにしても、肉体的な疲労はほとんど感じないが、頭脳的な疲れはしばしば経験する。

そんなこんなで、自分の年齢にしてはよく頑張ってきているじゃないかと、「慢心」していたきらいがある。

4月12日早朝、自宅の寝室で起きた一件が、私の慢心を一挙に打ち砕いてしまった。5時30分前後のことだが、小用を足すためにトイレに行こうとして目が覚めた。その時、私の寝相が悪かったために、左足にからみついていたシーツ、毛布、布団などを払うように、左足で蹴った。その瞬間、左足全体に激痛が走り、筋肉が強烈に吊った状態になってしまった。

硬直した左足を必死にかばうようにして、何とかトイレに到達し、小用を足してから寝室に戻ろうとした。その辺りから、どうも意識が朦朧としてきている。私が気が付いたのは、ドアとベッドの間の寝室の床の上に、顔を下にして横たわっていたのである。私の顔の周りに血の塊があり、右半分の髪の毛までに血が付いている。どこから血が流れたのか思案した。口か鼻か、あるいはほかの場所か。。。

どのくらいそういう無意識の状態が続いたのか、よくわからない。どうやって階上の家族の者たちの部屋までたどりついたのだろう。あの時、ドアを開けて私の血まみれの形相を見た彼らの驚き、恐怖はいかばかりだっただろう。

そのころには、少し落ち着きを取り戻した私は、ワイフが運転する車でノースヨーク総合病院(NYGH)=ヘッダー写真=の救急病棟に向かった。午前7時ぐらいだったと思う。派手な大喧嘩をして右目のあたりにパンチを食らって血だらけになった男のように見えた私は、簡単な登録手続きだけで、すぐ診察室の方に連れて行かれた。血液検査や心電図検査、エコーグラムなどの検査の後、CT-Scan で顔面の画像を撮った。そのうち、担当の救急医が来て、「目は大丈夫だが、目の周りの骨が fractured だ」と簡単に言った。fracture という言葉は「骨折」の場合もあるが、「裂ける、割れる」などのニュアンスに近い場合もあって、訳すのが難しい言葉である。

救急病棟では、医師があまり詳しく説明しないことがあるが、案の定、今回も「近いうちに専門医のオフィスから電話が行く」との話だった。翌日には、確かに別の大病院の専門医のオフィスから電話があり、翌週のアポが取れた。従って、今回の出来事の詳しい原因とかについては、その専門医に会ってからのことになると思う。

今のところの想像では、トイレから寝室に帰ってきたときに意識がなくなり、前向きに倒れた時に寝室入口に置いてある家具の角に顔の右半分を打ち付け、そのまま倒れて、右胸、右ひざなどを打ったと思われる。右目を中心とした顔のダメージと、それほどではないが、右胸、右ひざのあたりにも痛みが残っている。

あそこで意識を取り戻したのは、神様に感謝としか言いようがない。あのまま、意識が回復せず、亡くなるなどということもありえるとしたら、と考えると身も縮む思いである。

日本風に言うと「お岩さん」のよう、西洋風に譬えるなら「フランケンシュタイン」のような形相で、この記事を書いている。「よしあきよ、お前もそろそろ年齢相応にふるまえよ」という声が聴こえている。

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