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誰かが喜ぶと自分も嬉しい
人の心の奥底には「誰かが喜ぶと自分も嬉しい」と感じるセンサーがある。
これは本能のようなもので、自分でも気づかないうちに、いつの間にかそう感じているのだ。
「自分はそんな聖人君子じゃない」と思われるかもしれないが、表面的に気づいていないだけのこともある。
例えば、人が本気で涙をこらえて話している姿を見たとき、その理由が分からなくても、もらい泣きしてしまうことはないだろうか。
または、誰かが何かのきっかけで笑いのツボにハマってしまって、息ができないくらい笑っていたりするのを見ると、なぜかこっちまで笑ってしまったり、誰かが誰かに本気の怒りをぶつけている場面に遭遇して、戦慄を覚えたことはないだろうか。
これらはみな、私たちの心の中に、相手の心に共感する能力があることを示している。
そして、人が喜ぶ姿を見た時にもこれと同じことが起こっている。
だから「誰かが喜ぶと自分も嬉しい」のだ。
子どもの頃、親を喜ばせたくて、自分も何かをしたいと思ったことはないだろうか。
自分の場合、母親が料理を作るのを手伝いたいと言い出したのを覚えている。
人を喜ばせたくて、役に立ちたくて、自ら望んでやりはじめる。
これが人が「働く」ということの原点であると思う。
それは人間の心の奥深いところに根差しているものなのだ。
しかし、大人になって、その原点を忘れてしまうことがある。
働くことが義務になり、つまらなくなり、苦しくなる。
何のために働くんだろう?
生活のため? お金のため?
自分は29歳の頃、何のために生きているのか分からなくなったことがある。
一日のほとんどの時間を仕事に費やし、疲れ切って帰って寝る。そしてまた朝がくる。
「働くために生きているのか?」「生きるために働いているのか?」
もうわけが分からなくなった。
そして苦しくてどうしようもなくなって会社を辞めた。
会社を辞めた時、自分が何かから「コースアウトした」ような気分になった。
そして気づいた。
「いつの間に自分はそんな『コース』の上を走っていたんだろう」と。
まるでそのコースから外れてはいけないかのように思っていた。
それが幸せだなんて保証はどこにもないのに。
そんなふうに自分の心を縛る必要なんてどこにもないのだ。
世の中には色々な生き方があるし、世界はもっともっと広いのだと。
そうしたら、まるで背負っていた重い荷物を降ろしたように、心が軽くなった。
幸い、それまで働いて貯めていた貯金がいくばくかは残っていたので、家賃を支払いながらでも数カ月はなんとか持ちそうだった。
次の就職のあてはなかったが、あまり深く考えずに、とりあえず貯金の許す限り、ひたすら好きに生きてみようと思った。
そうして、しばらくの間、好きなことだけをして過ごした。
そして、自由な日々が続くと、だんだんと物足りなく感じるようになっていった。
好きなことだけやっているのは楽しいのだが、それが日常になると飽きてくるのだ。
土日があんなに嬉しかったのは、平日があったからなんだと、その時知った。
そして「何かをしたい」「何をしよう?」「どうせなら誰かが喜ぶことをしたい」「誰かの役に立ちたい」と思うようになった。
そうして、ようやく「働く」ということの原点に立ち戻ったのだった。
そうしているうちに、自分が本当にやりたいことが見つかり、そこに向かってまっしぐらに進んで行った。
自分の経験から思ったことは、
人は何もしないで好きなことだけをやっていても、だんだんと物足りなくなってくるということ。
そして、働くことの意味を見失って、働きたくないと思っても、結局は「誰かの役に立ちたい」「誰かが喜ぶことをしたい」と思うようになるということだ。
人の心は「誰かが喜ぶと自分も嬉しい」と感じるようにできているのだから、それが自然な帰結なのだと思う。
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