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旅エッセイ【橋】

 橋を渡るときはいつも緊張する。今日の橋はどうだろうか。ゆっくりと階段を登る。
 川を越えた向こう側にお店が集まるエリアがあるらしい。地図を見て知ってはいたが、いまだにあちら側には行ったことがなかった。お店があるというだけでは、橋を渡る理由にまではならなかったのだ。だが今日はよく晴れている。コーヒーでも飲みに行こうかと重い腰を上げて部屋を出たのはよいが、しかし川があるのだから橋を渡らねばならぬ。足取りは重くなる。

 川は観光地になる。大きい川の周りには新しいコーヒーショップやきれいなストリートフードの屋台が並ぶ。観光客はみな足をとめ、無言でスマートホンを見つめる。彼らの手の中に、暗く緑がかった水とハイカラな建物との綺麗なコントラストが収められていく。
 知人と出かけた際に大きな橋の下を通らなければならないことがあった。橋の下はもっと緊張しなければならない。そこにはたくさんの人が住む。
「観光の人にはちょっと怖いと思うし、1人のときは通らないほうがいいよ。でもこっちの方が近道なんだ。今日は僕もいるから大丈夫だよね」
知人が優しくこちらに確認する。彼が大丈夫というのなら大丈夫だと思い込むより外にない。
 案の定、そこにはたくさんの人が暮らしていた。私はなるだけ彼らから遠くなるよう道の端をひっそりと歩く。他人の家の中をのぞいているようでどうにも落ち着かない。彼らが洗濯物を干している横を土足で歩く。知人はかまわずに私から離れていく。気まずさが増す。知人の様子をうかがうと、洗濯物を干している幾人かと談笑を始めていた。私には分からぬ言語で楽しげに話し、笑顔で手を振って別れる。
「彼らはね、家がないだけで普通の人だから」
知人は言語を戻し、私に向かって話し出す。そのまま私の返事を待たずに続ける。
「お風呂には、入れてないから、まあ、ちょっとね」

 まだ、ゆるゆると階段を登っている。橋の下の川沿いには花壇が並び、ピンク色の花がかわいらしく咲いている。何艘もの船が走り、停まり、人々を都心へと送り届けている。やはり、川の向こう側へ行くのはまた明日にしようか。いまさら引き返すなどしないと分かり切っているが、心が晴れない。ひとつずつ、階段を踏む。
 最後の一段を登り切ってしまった。どうすることもできず顔を上げる。
 やはり。細い橋の真ん中に座っている。その前には透明の小さなコップ。

 無言で座る彼の前を静かに通り過ぎる。まだ、もうちょっと、少しだけ。私があの知人のようになれるには、あと少しだけ時間が必要なのである。どうしても、まだ。

#青ブラ文学部

また会いましょう。