おまえのために文章は書かない

文章は他人に読まれないと意味がない

読み手に届けてこそ、いい文章




そんなの綺麗事だ






あなたは他人に興味がありますか?





僕はこう思う。


人は、他人の話に興味がない。

どうせ話しても、すぐに自分の話をしたがる。


「どうしたのー」

と声をかけてくれて安心したのも束の間

「そうなんだー、私はね」

「へぇー、おれは」

あー、また始まった。結局おまえらはお前らの話を聞いて欲しいだけなんだろ。




「それでそれで?」

なんて聞いてくる人が、今まで何人いただろうか。


そうやって僕は自分の話をしなくなった。いつのまにか、自分の話なんてしたいとも思わなくなっていた。

言いたいことなんてない。僕の話を聞きたいやつなんていない。自己紹介は地獄だった。


だれがきく?聞きながらおまえたちは、自分が何を話そうか、考えているのだろう?



自分が一番かわいい


ほら、あたってるでしょう?




こうして聞き役に徹することになった僕の人生で唯一、僕の話を素直に最後まで聞いてくれたひと。





それは僕自身だった。





僕は日記が趣味だ。

無印のノートとペンが相棒だ。


僕にとって日記とは、僕が僕の話を聞いてあげる場所なんだ。


いつでも話を聞いてくれる。
いつでも褒めてくれる。
ときには注意してくれる。
それでもいいよって、許してくれる。
また頑張ろうって励ましてくれる。



だから僕は、僕が大好きだ。



だれが読まなくてもいい。
読まれるために書いていない。
それでも、あとから自分で読み返す時間はとても幸せだった。

「あのときね」

って、昔話をされているようで、それを書いた過去の自分が喜んで話している。日記を読む時の僕もまた、話を聞けて嬉しく思っている。


全く書かない日もあれば、1日に何回も書いたり、何ページも書いたりする日もあった。サラサラっと書く日もあれば、ページに穴が開くくらいの筆圧でノートを突き刺しながら書く日もあった。



感情をさらけ出した。


悲しみも怒りも、他人にぶつけてもどうしようもないと思っていた感情は全部、ノートに閉じ込めた。嬉しいことも楽しいこともかいた。でもこれは僕が思ったことで、他人がどう思うかは興味がなかった。共感もべつにほしくなかった。




その頃の僕と言えば勉強に夢中で、成績は学校のトップクラス。成績が悪い人がなぜ悪いのか、やれば出来るはずの勉強をなぜみんなやらないのか、不思議に思っていた。

「どうしてそんなに成績がいいの?」

と問われると

「勉強してるからね」

と返す、今思えばとんでもないクソやろうだ。友達なんて大勢いらない。話のわかる人が数人周りにいればいい。それで満足だった。


こんなクソ陰キャにも優しく楽しくつるんでくれた友達には、感謝してもしきれない。



そんな僕がどうしてnoteを始めたのか。



それはある日、僕が友達の家に日記を置き忘れてしまったことがきっかけだった。


数日して帰ってきた日記の後ろのページに、見知らぬ文字が書かれていた。友達からだ。

「ちょっと盗み見するつもりが、夢中になって2時間も読んじゃった。文章、もっと書きなよ。」


そうして僕はnoteを始めたんだ。

誰に向けて書いたわけでもない文章を喜んでくれた友達は、僕にとって初めてのよい聞き手だった。




今でも書くスタンスは変わらない。
読みたい人が読めばいい。
僕は僕のために文章を書く。

人のためにかいてたまるもんか。


そうやってムキにならずに。おれ。

誰かがたまーに読んで喜んでくれたらいいな。

こうして書き始めたら、案外いいねをくれる人がいて、現実世界でも僕の話をうんうんと楽しそうに聞いてくれる人はたくさんいることがわかった。

僕にとって大切にすべき人たちだ。




話を聞いてあげること、それは愛。

愛を知らない、少年は日記に救われていた。
愛を知った僕は、いまとても幸せだ。


ぼくはこれからも人の話を聞くだろう。

そしてたまに、自分の話をして、話を聞いてくれたあなたに、たくさんの感謝をするだろう。


あなたの聞く力は、とてもすごい価値があることなんだよって、言ってあげたくて、僕は話したくなっちゃうんだ。

そんな人に出会えて、僕は幸せ者だな。



読み手のあなたに感謝するために、僕はこれから文章を書いていくのかもしれない。

月並み以下かもしれない締めだけど、読んでくれて本当にありがとう。



#なぜ私は書くのか

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