小田原さん

【Vol.5 グローバル人材インタビュー】タイ人材紹介会社ナンバー1の社長が語る、海外ビジネス25年の歩み。そこから見えた「グローバル人材」に必要な1つの重要要件

小田原 靖
パーソネルコンサルタントマンパワータイランド株式会社
代表取締役社長1969年3月生まれ。福岡県福岡市出身
19歳で渡米、オレゴン州の大学を卒業後渡タイ
1994年パーソネルコンサルタント社を設立。2008年に労働省職業斡旋局に正式に業務登録されているタイの人材紹介会社135社の中で1位を獲得。現在でも毎年紹介数1位を継続中

1.「格好いい」が全ての原点。「海外」という選択に辿り着いた極めてシンプルな理由

よし
 まずは小田原さんのキャリアについてお聞かせ下さい。学生時代から海外には興味があったのですか?

小田原
 中学生、高校生時代に背広を着て、パチンコ屋に入っていく大人や少年ジャンプを読んでいる大人を見て「こんな大人に自分はなりたくないな」と思ったんです。シンプルに「格好いい大人」になりたかっただけです。それが自分の時代では単純ですが「アメリカでバリバリビジネスする人」が当時の格好いい大人のイメージだったんです。

 そう思っていると、高校時代にボーイスカウトの活動でアメリカに2週間行く機会を得ました。その活動を経て、改めてアメリカの格好良さとアメリカの大きさを感じました。そしてアメリカの大学に進学する決断をして、結局アメリカでは大学生活を含め5年過ごしました。

2.起業家精神が芽生えた、時給4ドルの皿洗いと15分で15ドルの窓拭き仕事

よし
 5年間のアメリカ生活で、小田原さんの「価値観」を変えるような印象的な出来事はありましたか?

小田原
 アメリカで皿洗いのアルバイトを行いましたが、時給4ドルしかもらえなかったんです。ところが、アメリカ人の友達が窓拭きの仕事をしていて、15分で15ドルもらえていました。

 理由を聞くと、単純に窓拭きだけを行うのではなく、自分で窓拭きを行う店を探す営業込みの仕事だったのです。つまり「自分でお客を探し、自分で窓拭きというサービスも行う」という自営業的な発想でした。自分で全てやって、これだけお金が稼げるのであれば、誰にも頼らず自分でやったほうが良いと思うようになりました。今思い返せばこの時2つの仕事を比較し、「自分でやるか、もしくは誰かに雇われるか」を考えたことが、起業家精神が芽生えたきっかけになったと思います。

3.アメリカから帰国。「とにかく海外で働きたい」という想いで再度日本を飛び出し、舞台は運命の地「タイ」へ

よし 
 そんなアメリカでの経験も経て、大学を卒業し、少しの期間でも日本で働こうという気はなかったのでしょうか?

小田原 
 アメリカから地元の福岡には3ヵ月だけ帰りましたよ(笑)。ただ、アルバイトを3ヵ月やってお金を貯め、またすぐに海外に出ました。その海外も実は正直どこでも良くて、最初は福岡とクアラルンプール間でマレーシア航空が飛んでいたので、当時の友達が「その航空券であれば安く手に入る」と教えてくれて、マレーシアに行くことに決めました(笑)

よし 
 本当にどこでも良かったのですね(笑)

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小田原
 はい!ただ韓国やシンガポールは当時ある程度発展していたので、それらの国はないかなと思っていました。これから経済が発展して行く国が良かったのですが、南米とかアフリカに行く勇気までは当時持ち合わせていなかったです。そんな勇気はなかったのですが、「とにかく海外で働きたい」とはずっと思っていました。

よし
 クアラルンプールへは、どのような気持ちで旅立たれたのですか?数年海外で働いて日本に戻ろうという気持ちだったのか、もう海外で一生働こうと思っていたのか、どちらでしょうか?

小田原
 正直本当に何も考えてなかったんです(笑)。とにかく「海外で働きたい」という一心だけだったので、国もさっき言った国以外はどこでも良くて、業種もなんでも良くて、給料もいくらでも良かったんです。当時23歳です。今考えたら社会をナメてますよね(笑)。

 結局クアラルンプールでも2週間程仕事を探したのですが、見つからなくて、そこから鉄道に乗り込んでタイに行き着きました。タイの事も全く知らなかったんですけどね(笑)。

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よし
 タイに行き着いて最初のお仕事は何だったのですか?

小田原
 タイの日本人駐在員向けの不動産仲介会社で、現地採用として働き始めました。当時現地採用として働く事が出来たのは、旅行会社か不動産会社しかなかったですね。

 日本人駐在向けのサービス業も当時はほとんど進出していなかったので、不動産を日本人駐在員に紹介している時に、例えば「洗濯機のホースをどこで買って良いかわからない」「郵便の送り方がわからない」などの相談を受けるようになり、不動産紹介と言いながら「よろず屋」のように色々なサービスを駐在員に提供するようになりました。

よし
 そこから今の人材紹介業にはどのように繋がっていったのですか?

小田原
 不動産以外の相談を受けているうちに、駐在員から求人に関する相談も受けるようになったのです。求人広告の出し方もそうですが、良い人材をどうやって獲得することができるかなどです。そんな経験を通じ、人材紹介業がタイで仕事にもなるし、ニーズも高いと感じ始めるようになったのです。

4.いよいよ人材紹介業へ参入!パーソネルコンサルタントが人材紹介会社ナンバー1へ辿り着くまでの道のり

よし
 いよいよ人材紹介業への参入ですが、ビジネスは最初どのようなスタートだったのでしょうか?うまくスタートが切れたのでしょうか?

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小田原
 大手人材紹介会社のパソナさんだけが既にタイに進出していたので、ほとんどの日系企業が当時パソナさんを利用していました。ですので、我々の最初の戦略としては「パソナさんが探しきれずに弊社に流れて来たお客さんを確実に獲得する事」でした。

よし
 お客さんは流れて来るものなのでしょうか?流れて来たとしても、どのような手法でお客さんを獲得するのですか?当時の人材紹介業の差別化要因って何でしたか?

小田原
 お客さんが流れて来る一番の理由は、要求にマッチした人材がすぐに紹介できないからです。お客さんは数週間、数ヵ月も待ってくれなかったので、スピード感を持って対応することが人材紹介業での肝でした。当時はスマホも当然なかったので、スピードを確保するためのデーターベース作り含め、FAX、電話などを駆使しながら、相当社員にも無理を言いました。

よし 
 なるほど、スピード感を確保するために社員の頑張りが必要だった訳ですね。小田原さんは社員を非常に大事にしている印象があるのですが、当時からそのような会社を築こうとしていたのですか?

小田原
 いやいや、当時と今は全く異なりますよ。社員の生活の事なんか正直全く考えていなかったです(笑)

 仕事をいかに軌道に乗せるかだけを考えていました。仕事の中で社員に無理も言いましたし、仕事が出来なければ怒ったり、責めたりもしていました。

よし
 えっ、今と全く印象が異なりますね。そのような状況から現在社員を大事にしようと思い始めたきっかけはあったんでしょうか?

小田原
 きっかけも正直わからないんですよ。いい加減どうにかしなきゃと思ったんでしょうね(笑)。ただ、「なんでみんなこんなに辞めて行くんだろう?」と思うようになり、従業員のことを少しづつ考え始めたというのは事実ですね。

よし
 当時の離職率はどれくらいの割合だったのですか?

小田原
 当時10名の社員数だったのが、すぐに辞めてしまい、年間70名以上は採用していたので、離職率なんか計算できないですよ(笑)1998年なんて、年明けたら1人しか残っていなくて、皆辞めてましたからね。

 その1人も残ってくれて本当にありがたいなと思っていたら、横領をしていたり。こういう経験もあって、当時は辞める事が当たり前だったので、社員に構っている時間はなかったんでしょうね。

よし
 ビジネスはその後どのように展開して行ったのでしょうか?タイはその後、急速な発展を遂げる訳ですが、それとともにビジネスも変化していきましたか?

小田原
 タイの経済成長とともにビジネスが伸びたのは確かです。タイでビジネスを開始した時期が本当に良いタイミングだったのは間違いありません。

 一方、ここ25年で一番変わったのは「タイ人」自身だと思います。90年代は離職率も高かったですが、独身の若い人達が働いていたので、仕事もフットワークが軽かったように思います。だから私も仕事で少々の無理を言えましたし、従業員だけを見て仕事していれば良かったのです。

 ところが、経済成長とともに、従業員にも家族ができ、子供を持つようになり、働き方も日本のように随分「重く」なって来たんですよね。だから昔うまくいったフットワークの軽さや、従業員だけのことを考えれば良いという時代から、私も社長として従業員の家族の事も考えるようになりました。今考えるとそれが従業員を大事にし始めたきっかけですかね。

 今では「従業員が幸せじゃないといけない」と思いますし、「従業員が朝起きて早く会社に行きたい」と思えるような職場を目指しています。

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5.海外で働くと実感できる「3つの成長」。そして「上りのエスカレーター」に乗ることか海外ビジネスの成功要因

よし
 そんな激動の海外ビジネスを経験して来た小田原さんですが、海外で働く事の魅力ってなんだと思いますか?

小田原
 「成長」を感じられる事だと思います。その成長とは「自分の成長」「社員の成長」そして「国の成長」であったりします。タイは経済成長という意味では、間違いなく「上りのエスカレーター」だったと思うのです。これが「下りのエスカレーター」の国では必死で働いても、決して「上りのエスカレーター」には追い付けないと思うのです。ですので、今後も海外のビジネスを考える時に、その国が今「上りのエスカレーター」なのか「下りのエスカレーター」かを見極めるというのは非常に重要なポイントですね。

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よし
 これまでの話を聞いていると、起業当初は「従業員の事をほとんど考えていなかった」小田原さんが、今では「従業員の幸せ」を考えるまでに至ったのは、小田原さん自身も海外ビジネスを通じて変化や成長したということでしょうか?

小田原
 今となっては劇的な変化に見えるでしょうが、20年以上かけて少しづつ変わって来ました。当時はパソナに追いつけ追い越せで「絶対に一番になるんだ」という気持ちで仕事していたので、幸せばかりを追い求めていた訳ではありません。

 実際パソナを抜いて1番になった後は、幸せの事を考える余裕が少しできました。ただ、そればかり求めていると今度は業績が落ちて来て、それは従業員にとっても本当の幸せとは言えないので、状況に応じて今でも日々変化していますよ。

6.25年海外ビジネスに携わり、タイ人材紹介会社ナンバー1にのぼりつめた社長が思う、海外で活躍するために必要なマインド、スキル。そして「グローバル人材」とは?

よし
 小田原さんは、海外で活躍している他の起業家とも多くの接点がありますが、そのような方々と接する中で、「海外で活躍するために必要なマインド、スキル」などあれば教えて頂けないでしょうか?

小田原
 前向き、ポジティブ、継続できる、まずやってみる、気軽に失敗できる人じゃないでしょうか?

よし
 「気軽に失敗できる人」という表現は面白いですね?

小田原
 海外でのビジネスは、未知の部分が多く、失敗することも多いので、失敗を失敗と思わない人という意味です。やってみないと分からないことが多いので、そういうのが苦にならない人が間違いなく良いでしょうね。

 失敗という点では、海外のほうが日本よりも許容されているように思います。日本だと一回の失敗で挽回するチャンスが少ないように感じますが、海外だと失敗しても次のチャンスを得やすいと思います。

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よし
 世間では良く「グローバル人材」というワードが出てきますが、小田原さんから見た「グローバル人材」とはどのような人を指しますか?

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小田原
 これはもう「自分で生きていけるかどうか」ですよ。海外で働いているから「グローバル人材」という訳ではありません。日本が強い時代はもう終わっており、これからは国同士の垣根もどんどんなくなっていき、日本国内にいても優秀な外国人と戦う社会になっていきます。

 世界が凄い速さで変わっているので、グローバル人材、つまりは「自分で生きていける能力」がないと逆に生き残れないシビアな時代に入っています。

よし
 最後に「今後海外で活躍したい」と思っている人に対してメッセージをお願いします。

小田原
 成功するかしないかは、飛び込んでみないと正直わかりません。失敗してもダメだったらまた次やればいいし、海外では失敗してもやり直せるチャンスは日本よりもあると思います。

 繰り返しになりますが、もう「強い日本」の時代ではないので、必然的に外を見たり、国内にいても他の優秀な外国人と戦わなければいけない時代がすぐそこに来ています。「自分で生きて行く」という強い信念を持って、今後頑張って下さい。

インタビューの要諦
1.シンプルに「格好いい」を原動力にする
2.「とにかく海外で働きたい」という想いだけで日本を飛び出す行動力
3.海外ビジネスでは「上りのエスカレーター(経済成長している国)」に乗ること
4.前向き、ポジティブ、継続できる、まずやってみる、気軽に失敗できる人が海外で活躍
5.グローバル人材とはズバリ「自分で生きていけるかどうか」


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