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425. 異性愛者の中には、「同性愛に特に悪い感情はないけれど、近づきたくないし、できれば関係を持ちたくない」という人もいます。これは同性愛嫌悪になりますか?

「同性愛に特に悪い感情はないけれど、近づきたくないし、できれば関係を持ちたくない」というのは、前の記事で見た「同性愛嫌悪」(ホモフォビア)とは異なるかもしれません。

ここで1つ考えなければならないのは、LGBTQ+コミュニティの人たちみんなが、(私が示した「同性愛嫌悪とはこういうものである」と説明したことと)同じ基準で同性愛嫌悪のありかたをとらえていない可能性があることです。

これは別の言葉、例えば「愛」を考えるとわかりやすいかもしれません。

「これが私が考える愛です」というのは、人それぞれで、必ずしも辞書に書いてある定義通りに「愛」を捉えている人はいないと思います。

それが「同性愛嫌悪」にも言えるということです。

ですから、当事者の中には「同性愛に特に悪い感情はないけれど、近づきたくないし、できれば関係を持ちたくない」という態度は同性愛嫌悪だ、と考える人もいるでしょう。そこには個人差があると思います。

また、このような態度が同性愛嫌悪でなくても、偏見や社会的ステレオタイプ、固定観念に基づく考え方の可能性はあると思います。例えば次のようなものです:

・同性愛は不自然だ
・当事者は同性愛になろうと自分で決めたのだ(ライフスタイルだ)
・家族に同性愛者がいると、他の家族に影響する(例:兄がそうなら弟も影響されかねない)
・ゲイは女っぽい、レズビアンは男っぽい
・同性婚を認めると日本の「家族」観が破壊されてしまう

ホモフォビアは、同性愛者やLGBTQ+の人々に対する明白な拒絶、差別、侮辱、恐怖を伴うものです。

ホモフォビアはこれまで作り上げられてきた性的マイノリティにたいするステレオタイプや自分のよく知らないものへの不安(未知のものへの不安)、または単純に「自分と異なるもの」に慣れ親しんでいないことから生じる場合もあります。

これをふまえて言えば、「同性愛に特に悪い感情はないけれど、近づきたくないし、できれば関係を持ちたくない」という態度が個人の日常生活や選択にどのように影響するかによって、それがどれほど問題的であるかが変わるのではないでしょうか。

たとえば、このような態度が職場での人事判断や友人の選び方、隣人や町内会との付き合いに影響する場合、それは明らかな差別や偏見となる可能性があります。

「近づきたくない、関係を持ちたくない」という態度は容易に偏見や差別へとつながっていきます。

重要なのは、「同性愛に特に悪い感情はないけれど、近づきたくないし、できれば関係を持ちたくない」という思いについて自分の感じることや信じることの背景にある理由を自覚し、それを再評価することです。

悪い感情はないにもかかわらず、近づきたくないというのはどうしてだろう?

悪い感情はないと思っているにもかかわらず、関係を持ちたくないと思っている自分はなぜそう思っているのだろうと考えるということです。

このように自分の感情と向き合うというのは当事者側から「そうしてください」とお願いするのは難しいことです。

「近づきたくないし、関係を持ちたくない」と思っている人が自分から「なぜそうなのか」という問いを発することがないと、おそらく気づけないかもしれません。

そして、多くの人はおそらくそのように自分の「近づきたいくない、関係を持ちたくない」理由をつきとめようとはしないでしょう。

最初に書いたように、「関係を持ちたくない、近づきたくない」という態度が「同性愛嫌悪」とみなされるかどうかは当事者によっても違います。

ここでははっきりと「同性愛嫌悪である/ではない」という結論は出しません。

しかし同性愛嫌悪もステレオタイプも誤解も偏見も、あるよりは無いほうがいいと思います。

みなさんはどうお考えになりますか?

画像:National Gallery of Art, Charles-Nicolas Cochin II Friendship, Useless Friendship, and Hate, 1774/1775
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