見出し画像

311. 先日、おすぎとピーコさんの近況が報じられて話題になりました。普通に昔からゲイのタレントさんがテレビに出られてた日本はLGBTに寛容だったんじゃありませんか?

はい、おすぎとピーコさんの記事は私も読みました。また、お二人がゲイであること、オネエ言葉を話して1970年代後半から活躍されていたことも知っております。

そして今回の質問のように、「海外(特にアメリカ)ではゲイと公表してテレビやラジオで活躍するなんて当時は考えられなかった。日本はその点で進んでいた。日本は性的マイノリティに(昭和から)寛容だった」という意見もネット上で多く見かけます。

LGBTという大きな括りではお話できませんので(例えばバイセクシュアルを公言していたタレントが昭和から活躍していたかどうかわからないので)同性愛に絞ってお話します。

みなさんは「禁断の愛」という表現はご存じでしょうか。「禁断」とは「ある行為を禁じること」なので、「禁断の愛」とは「愛してはいけない・あいすることを禁じる」ということです。

平成の日本では同性愛についてこの「禁断の愛」という表現が用いられて話題になりました:

日本最大手のゲームメディアであるファミ通.comが、アメリカ産の男性同士の恋愛シミュレーション・ゲームについての紹介記事の題名などで「(同性愛は)禁断の愛」と表現したことについて、問題視する声があります。(Hatena Blogより)

もし日本が昭和時代からずっと同性愛に寛容なら、「同性愛」を「禁断の愛」などと表現しないと思います。

男性同士ばかりではありません。女性同士の愛についても同じ「禁断の愛」という表現が使われています。次の文章は『週刊現代』(2002.3.2)に掲載された「ルビーフルーツ」(1995)という映画の紹介文です:

インドネシア・バリ島を舞台に、恋人を亡くした傷心の女性が女同士の禁断の愛に魅せられていく。尻出し全開セミヌードを披露する南果歩が、濃厚なベッドシーンを。(太字は引用者のもの)

平成の時代でもマスコミでは同性愛が「禁断の愛」とされていたという事実から見えるのは、この同性愛の扱いが昭和時代からずっと続いてきたものだということです。そこに「寛容さ」はありません。もしあるとすれば、それは「物珍しさ」に対する「好奇の目」だと思います。

マスメディアでおすぎとピーコさんが活躍なさっていたことは事実であり、それに異論はありません。しかし、それのみを根拠に「だから日本は昔(昭和)からLGBTに寛容だった」とは言えないのです。

わたしの以前の記事で取り上げたように、とんねるずの石橋貴明さんは「保毛尾田保毛男」というキャラクターを演じ、視聴者はそれを面白がって観ていた。このキャラクターは「テレビにおけるゲイ差別の象徴的な存在」です(増原さんの記事より)。

特定の人が芸能界などで活躍することと一般の人たちでは話が違います。おすぎとピーコさんが特定の分野で活躍される一方で、「ホモ」「おかま」「レズ」などという言葉が相手を罵る言葉として使われ続けてきて、それによって心に傷を負う一般の人たちがいます。

その人たちは昭和・平成・令和というように時代が変わっても「自分が自分であること」を他人に話せない(話すことでひどい目に遭うんじゃないかと恐れている)ことを忘れてはいけないと思います。もし本当に日本がLGBTに昔から寛容だったら、そういう恐れを抱く人はいないだろうと思います。



参考資料

Hatena Blog「禁断の愛」はお好き? ファミ通が同性愛を「禁断の愛」と表現したことの、どこがどう問題なのか (2017-11-22)

増原 裕子 「保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)は何が問題なのか、専門家が時系列にまとめて解説」ビジネス+IT(2017-10-20)

画像:Photo by Milivoj Kuhar on Unsplash