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ある建物のことばかり考えていた

トップ画像はオランダの家具職人(兼建築家)ヘリット・リートフェルト設計のチェアです。心斎橋のカッシーナで座ってきました。最近彼と彼が設計した建物について調べていたので、気になって。美術館と違って座れる(お金を出せば買うこともできる)のがいいですね。

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何かを新しく学ぶとき、いまに至る流れを捉えるために歴史は大切です。デザイン史を知ろうと調べていくと、たびたび登場したのが、モダニズム建築と、リートフェルトだったのでまずそこを深掘りすることにしました。絵画や社会活動など他分野に関わりがあり、領域を広げる際に起点にしやすいという点でよかったです。彼が設計したシュレーダー邸という建物について、まとめました。

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近現代、とりわけ19世紀から現在までのデザイン史において、ヘリット・リートフェルト設計の「シュレーダー邸」を例に挙げ意義を考察するとともに、デザインが時代の問題と対峙し要望に応えてきた点について論じる。

シュレーダー邸

シュレーダー邸は、1924年にオランダの建築家ヘリット・リートフェルトが、施主であるトゥルース・シュレーダーとともに作り上げたユトレヒトに建つ住宅である。この住宅は、リートフェルトが所属していたデザイングループ「デ・ステイル」の原則を表現し設計され、長年シュレーダーの邸宅として機能してきた。2000年、西洋建築における傑作のひとつとしてユネスコに認められ、世界遺産に登録されている。

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シュレーダー邸は、シュレーダーの強い目的があって設計された邸宅である。幼い頃から散歩の習慣があった彼女にとって自然を近くに感じられることは重要であった。そこで当時では珍しくリビングが2階に設計されている。また3人の子どもたちとの家族としての居場所も重じており、リビングは各自の寝室の機能も含めた大きな一室として作られている。家族が眠る際には収納されている戸を引き出して個々の部屋へと形を変える。のちに自家用車を持つこともあると考えて駐車場のスペースをあらかじめ想定しておくなど、シュレーダーは先の生活の変化の可能性への対応機能を持たせていた。一見コンクリート造りのようでレンガと木で作られている点で堅牢性は高いとは言えない。基礎とバルコニーだけが鉄筋コンクリートづくりであり、天井の素材は藁とプラスター(漆喰、土など)で壁もプラスターで塗られている。当時コンクリートづくりが技法として新しかったが、素材を安価に抑える必要性に応じた。2階の天井を支えるために鉄の梁を入れている。

デザインは、リートフェルトの有名作「赤と青の椅子」を感じさせる。いずれも赤、青、黄といった原色と黒、白、グレーといったモノトーンを組み合わせた色調と、木材の直線的な繋ぎが特徴的である。建築における色彩をテーマにしていたデ・ステイルの方針が表れている。

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設計がリートフェルトと、建築のプロフェッショナルではない施主シュレーダーの連名である点は不思議である。その状況を捉えるのに2人の経歴と関係性を知る必要がある。シュレーダーは弁護士である夫と3人の子どもたちと一緒に暮らしていたが、クラッシックな考えの夫との生活に満足していなかった。リートフェルトとの出会いも、家屋内に自分のスペースを作る設計を依頼したことがきっかけであった。その後夫が亡くなり3人の子どもたちと暮らす家を探すところから、この邸宅のプロジェクトは始まっている。抽象芸術として有名な「コンポジション」の作者ピート・モンドリアンもデ・ステイルの中心人物の一人で、リートフェルトのスタイルは当時の抽象芸術に通ずるものがあり、シュレーダー邸はデ・ステイル唯一の建築作品とされている。

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シュレーダー邸は、抽象芸術が誕生した20世期初期に建築という領域で、女性が発注者、消費者的な視点からデザインに関わったという点において稀有で意義のある建築である。

グローバリゼーション、近代工業化、女性の人権

グローバリゼーション
19世紀の後半から20世紀の後半は戦争の時代であった。とりわけヨーロッパにおいては内戦から2度の大戦まで大小様々な争いの戦地となった。それは産業革命後の移動技術の発展とともに世界が小さくなったことにも起因する。また、戦地を逃れ芸術家が限られた地域に集まったり、プロパガンダとしてデザインが消費されたり、移動が容易になり芸術留学が増えたりと、デザインはさかんに国境を超えた。実際、デ・ステイルのピート・モンドリアンは戦争でパリに戻れずオランダに残り、それをきっかけの一つとしてリートフェルトと邂逅している。また、大陸をまたいだ移動ができるようになったことで、万国博覧会が開かれるようになった。1851年の第1回ロンドン万博、1855年の第1回パリ万博にはじまり、1900年の第5回パリ万博に至るまで、19世紀後半のデザインの中心地はヨーロッパ、とりわけパリであった。世界中からパリに人と作品があつまり、また世界に拡散されるという点で、デザインとグローバリゼーションとの関係は切っても切れない。

近代工業化
また、デザインは大衆化、民主化という点で近代工業化の影響も大いに受けている。絵画や彫刻のようなクラッシックなアートは生活必需品というよりは娯楽品、富の象徴としての位置付けであった。一般の消費者にとって非日常で触れる機会の限られた用品であった。そしてデ・ステイルを含むデザイングループはある意味権威的で、大衆的な消費者からは遠いところで製品がデザインされていたとも言える。その点でリートフェルトの代名詞である赤と青の椅子は今なお量産されており、近代工業化の影響で消費者に近づいた。現在も市街地のカッシーナで購入できる。また工業化は効率化のために分業という手段を用いる。それは品質向上やコスト抑制にも寄与するが断絶ももたらす。椅子の背もたれと脚を別々の職人が作ると、1人の職人が椅子を作る際よりも座りごごちやトータルデザインの視点を欠きはじめるという話は建築以外でも引用される。シュレーダー邸においては色彩までリートフェルトが完全に担ったが、他の建築では色彩は建築家の領域でないとされることもあった。だからこそデ・ステイルでは建築における色彩、画家と建築家の協働をテーマにしていた。

女性の人権
デザインは女性の人権の問題とも関わりがある。旧来、アート・デザイン領域において女性はモデル、すなわち作り手側でなく見られる側として消費されてきた。また家庭においても男性を支える者と考えられてきた。しかし、こと建築、家具の領域においては、家庭にいる女性がメインのユーザーである。その点で亡き夫との暮らしに不満を抱き自室を作っていたシュレーダーが問題意識から邸宅の設計に関わったのは自然の流れだと言える。実際にシュレーダーは、子どもたちと過ごす空間を最適化する狙いで2階のレイアウトを考えたり、キッチンまわりのデザイン案を大量に残したりしている。2階のすべての部屋に水道、電気、調理器具が設置されるという設計は、実際に家事や育児をする女性の立場ならではのアイデアである。

デザインは時代の要求に応えてきた

グローバリゼーションのもとでは国家的、または集団的な主義が衝突した。全体主義から個人主義へ移る時代のさきがけとして、国家や集団が主張するものを超えて自己の主張を重じたいという想いの萌芽が当時あったと考える。また、近代工業化によって分業が進む中、部分最適を解消して真に消費者が求めるものを作ることがデザインに求められるようになっていたのではないか。それは現代の参加型や体験型、ストーリーに共感するなどという現代の消費傾向にも繋がるような、主義を持った個人の表現したいという欲求に応えていった結果だと考えられる。シュレーダー邸においても、シュレーダーの強い主張が建築に色濃く表れていた。元来権力と富を持つ発注者が力を持つ古典的な形ではあるものの、いちユーザーが究極の生活用品である住居においてそれをしたことが、後の注文住宅に繋がるような作り手になりたいという欲望をかき立てたであろう。女性の人権問題はフェミニズムという言葉以前から20世紀に大きく注目され選挙権、社会進出、リーダーの誕生などに表れた。デザインにおいて女性デザイナーが誕生、活躍することは、女性が女性の強みを活かした分野、たとえば家庭内のデザインなどで、領域を獲得していった。活躍する女性デザイナーを見てそれに憧れたり志したりする女性は大いにいたことだろうと予想できる。

〈参考文献〉
イダ・ファン・ザイル (編著),ベルタス・ムルダー (編著),田井 幹夫 (訳)『リートフェルト・シュレーダー邸―夫人が語るユトレヒトの小住宅』、 彰国社、2012年
松下 希和 (著)『住宅・インテリアの解剖図鑑』、X-knowledge、2011年

まとめ

20代、経営学を主に勉強していた頃は、ものごとを抽象化し、演繹的に考えることを大事にしていました。ある会社の事例を他に活かす、目的から逆算して構想する、など。最近デザインや美術について考える機会が増えて、とことん具体的に見るという逆のアプローチをすることが増えました。作品をよく見る。シュレーダー邸を直接見たわけではないですが色々な写真、文献を見ました。小説、映画の見方も変わった気がします。新しいことを知ってもの見え方が変わるのは楽しいことです。




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