ある雨の日にYoko Komatsuさんのピアノの音を聴きながら

ある雨の日の話。

ホームセンターの買い物に行った時に見つけた、買う予定のなかったコケを瓶の容器に植えていた。
どうして買ったかはわからないけれど、安くなっていたことや少し心踊ったこともあって気がついたら手に取っていて、買う予定にはなかった。

…本当に。

部屋を少し掃除して、作業用のスペースを確保して、前もって作った土を入れて…。作業用にラジオを聴こうか、音楽を流そうか悩んでいた。

最近あまり聴いていない音楽も良いなーと、少し前に追加した音楽のライブラリを探してスクロールしている中で見つけた、あぁこれは良い、きっと今日にピッタリだ、と思ったアルバム。

Yoko Komatsuさんの「cosui」

例のごとく、私のnoteで時々出てくるお気に入りのショップで知った楽曲。

このアルバムは、ピアノが主のアルバムの中でもお気に入りの1つなのだけれど。

聴こえてくる音の1つ1つが純度の高い水玉のように瑞々しくきらっと輝いていて、どこか透明で、その瑞々しい音が鏡のようになって、自分の奥深くにあるものと対面させられるような気持ちになる。

お寺の縁側で庭を眺めているときの気持ちに近いような。

全13曲だけれども、とてもお気に入りなのは12曲目の「L i c h t」
この曲だけは、最初に聴いた時しっかりとはっきりとした輪郭を持った景色や音が見えてきた。

この曲にはMVがあるのだけれど、YouTubeで観られるのでぜひ観て欲しいと思う。
どんな言葉をたくさん連ねても届かない景色。
やっぱり、映像の力はすごいなと思う。
最初に曲を聴いた時にみえた景色がそこにはあって、同じような感覚で観ている人がいたんだ!と勝手に嬉しさを感じた。

しっかりと確かに、ゆっくりと地を踏みしめる音。
流れる水脈。
何十年何百年とそこにあり続ける木々や、そこに吹き込む風と揺れる葉の1つ1つ。
そこに生きて蠢く大小の野生の動物たち。
そしてゆっくりと足元を確かめるように確かに進んでいく中に見える、仄暗い景色に差し込む淡い色の暖かい光。

そういえば、去年や一昨年は割とこの曲を聴いていた気がするなと思い出した。

先行きの見えない重く暗い空気の中で、どうしても明るい景色や光は霞んで見えていて、言い表すことのできない重怠い気持ちを抱えていた。
遠くて近い世界から聴こえる轟音の景色を想うたびに、今見えている世界の中で生きている感覚や足元がフワフワとしたものになって、どこか生気を失っていたようにも思う。

そんな時に世界をシャットアウトすることは簡単で、テレビを消したり、スマートフォンになるべく触れなかったりSNSを開かなかったり、という選択も時にあったけれど。

それでも日々の生活の中で、届く好きなアーティストからの情報だったり動画だったり、見知らぬ土地で暮らすSNSを通じて知り合った異国の地の友だちから届くメッセージはやっぱり嬉しくて。

こんな世界の中でも、生きているんだなとか、日常はそれでも続いているんだなとかを噛み締めていた。

そして浮き沈みを繰り返す足元を確かめるように聴く音楽は、道標のように足元を照らしていてくれた。
あの頃に聴いていた音楽ある程度決まっていたし、偏っていたかもしれないけれど…。多分忘れない思い出たちとして、これからの人生の中で大切なものになるのだろうな、とかは思う。

そんな中で聴いていたアルバムの1つだった。

流れる音の中に確かに見える指の動きの1つ1つ。
いやいや…とか言われるかもしれないけれど、目には見えなくても指の動きが、身体の動きが頭の中に、瞼の裏に不思議と浮かんでくる。

あぁ、今こんな感じで指が動いて鍵盤を押して、ピアノのアクションが動いて弦を揺らして音が出ているんだなと思うたびに、その音1つ1つの中に溢れる純度の高い音の塊が、弾けるではなく染み渡るように身体の中にじわじわっと浸透していく、

と書きながら、化粧水のような、ボディミルクのような、とか思い浮かべていた。でもボディミルクだと少し重たいし、化粧水かなとか。

そんな曲達を聴きながら、乾いていく身体の潤いを保っていたのかもしれない。
そんなことを、今改めて言葉にしていると思う。

まだ少し、日常を取り戻すには時間がかかるかもしれないけれど。
梅雨はとっくに終わったのに、まだ湿気が残る世界だけれど。

疲れ果てて乾いた身体に、これからの夜が深まる秋の季節のお供に。
聴いてみてほしいなと思う。


余談だけれど、そういえば10月に、FlussでSontag Shogunの来日ツアーが組まれていてYuki Murataさん出るのだよね。

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