[V論考] Vtuberとは何か?文化としてのVtuberの構造を考える

Vtuberとは何か。おそらく幾度となく問われてきた問いであり、筆者の知る限りにおいてはいまだ十分に言語化されていない問題だ。Vtuberとは何であるのか、を考える際、Vtuberという言葉の定義だけでは不十分だと筆者は考える。この論考では、Vtuberの定義を超えて、Vtuberという文化がどのような構造をなしているのか、筆者の仮説を述べたいと思う。


Vtuberの定義

Vtuberとは、映像コンテンツを発信し、実在する人間として扱われる、2D/3D CGの外見を持つキャラクターである

上記が筆者の考えるVtuberの定義である。WikipediaにおけるバーチャルYouTuberの定義との差異を確認しよう。

バーチャルYouTuberは日本発祥の、コンピュータグラフィックスのキャラクター(アバター)、またキャラクター(アバター)を用いてYouTuberとして動画投稿・配信を行う人。また、その文化。

上記がWikipediaの定義である(執筆時点、2020年6月28日における記述を引用)。筆者の定義においては、アバターという表記は入れていない。これはアバターは実質的にキャラクターと見なせるという考えから省略しているだけで、アバターが入ることは否定していない。違いは、「実在する人間として扱われる」「キャラクターである」ことである。まず、Vtuberが指すのはキャラクターであり、その背後にいる人ではない。その上で、人間として扱われるという点が、他の(アニメなどの)キャラクターとVtuberを区別する境界線として必須であるため定義に含めている。

この、キャラクターが「実在する人間として扱われる」という点が、Vtuberという文化における最大の特徴である。Vtuberになじみのない人に端的に説明することは難しいが、一方でVtuberに触れている人にとっては納得してもらえる点であろう。キャラクターが人間のように振舞い、また周囲もそのキャラクターを人間として扱うことが、Vtuberという文化の特徴であり新規性である、と筆者は考える。


Vtuberという文化の特徴:「中の人などいない」というフィクション

Vtuberが「実在する人間として扱われるキャラクターである」という特徴はどのようにして成立しているのか。その鍵は、「中の人などいない」というフィクションをリスナーが共有していることである。おそらくVtuberファンであれば一度は「中の人(=Vtuberに声・動きを当てているであろう人間)」について考えたことがあると思うが、多くの人がそれぞれの理解で折り合いをつけていることだろう。そしてキャラクターを一人の人間として扱っているファンが多いようにみえる。例えばVtuberを悪し様に罵ることが躊躇されたり、逆に道徳上よろしくない言動をした場合には批判をしたりというのがその例だ。主観的であり線引きが難しいが、アニメキャラクターよりは実在性があり、生身の人間よりはフィクションとして扱われる、まさに半ナマという表現が実体をよく表している。

もちろん、人間がやってるから当然じゃないのか、という意見も考えられる。しかし多くのキャラクターは、人間が演じていながらも人間ではなくキャラクターとして扱われることが常であった。例えばアニメキャラクターは声優が演じているし、舞台においては人間が人間であるまま別人になる。そして舞台の上ではどのような言動をしても許される。たとえ人を殺しても、差別的な発言をしようとも、それはフィクションの舞台の上での出来事・そこに住むキャラクターの発言であり、それを問題と取る人間はいない(作品を批判する人はいるかもしれないが)。しかし例外的に、Vtuberに関してはキャラクター自身に言動の責が置かれるのである。これが一つの「人間として扱われる」例だ。また、Vtuberには責任もあれば権利もある。人権というと大仰だが、自由に表現・発言をする権利、活動に対して適正に対価を受け取る権利、プライバシーを守る権利、誹謗中傷を受けない権利などが、中の人ではなくキャラクターにある(と受け取られる)。おそらく多くのVtuberリスナーは、キャラクターではなく中の人が出てきて謝罪したり、権利を主張したりすると違和感を覚えるのではないだろうか。


なぜ「中の人などいない」か

Vtuber界において「中の人などいない」と言われるのはなぜだろうか。筆者の仮説は、「キャラクターを単独で人間扱いさせるために必要だったから」である。「中の人などいない」というスタンスは、Vtuber側から提示され、リスナーによって共有される前提となった。それは誰かが主導したのか、そのような意図があったのかは分からないが、このスタンスによって、キャラクターの人間扱いが成立したのだと思っている。

「中の人」の存在感、「中の人」に対する関心は大きい。このことは、「中の人」という言葉の存在からもわかるし、Google検索のサジェストでも頻繁に出てくる言葉である。筆者も思わず「中の人」を調べた経験もある。多くの人は、「中の人」を無視できないのだ。

仮に、Vtuber成長期(2018年前半くらいまで)に、あるVtuberが演者の名前をオープンにして活動したとしよう。その場合、まず間違いなくキャラクター=演者、と見られていたのではないかと思う。すなわちキャラクターは演者のアバターであり、主体は演者である、という形式だ。その場合人間扱いされるのは演者であり(人間だから当然だ)、演者=キャラクターだからキャラクターも人間扱いされる、という構図になる。Vtuberをこう見る人は今もいるだろうし、Vtuberになじみがない人が見たら一定の人間はこう考えるだろう。そうなると、キャラクターが個別の人間扱いされることは難しくなる。

演者が表に出ている状態でキャラクターと言動を分離しようと思ったとき、今度はキャラクター側が完全なロールプレイと見なされる。つまり完全なフィクションとして受容され、俳優・声優とキャラクターのような関係になる。この状態もまた、キャラクターが単体として人間扱いされていることにはならないだろう。

実のところ2020年6月現在においては、演者が表に出ている、あるいは隠れていなくてもVtuberが人間として受容されるように感じるシーンは多い。だがそれは、リスナー間でキャラクターを実在するように扱うという文化が醸成され、Vtuberの楽しみ方が定着してきていることが理由だろう。Vtuberになじみのない人々にとっては「中の人」=Vtuberと思うのは無理からぬことであり、だからこそ「中の人などいない」というスタンスは今後も多く必要となってくるだろう。

余談だが、演者が明らかながらキャラクターは別の人格として受容される顕著な例としてバ美肉おじさんの出現があげられる(遡るとねこます氏やノラネコPも含まれる)。バ美肉については別記事で詳しく書いたが、当初はセルフ受肉、イラストレーターが自身のアバターを美少女としてデザインしたことが発端である。その後、かわいいを追い求めるおじさんたちの努力により、男性でありながら女性としか思えないキャラクターで活動することになった。ことここに至り、中身が男性であることは周知の事実であるものの、キャラクターは完全に女性という不一致が発生すると、中身が男性だと信じたくないリスナーによってキャラクターと「中の人」は別だと認識されるようになった。バ美肉おじさんにおける「中身は別」という考え方は、「中の人などいない」の分かりやすい例だろう。

ただし、バ美肉おじさんにおいてキャラクターがフィクション寄りであることは、「中の人」の存在感の強さの傍証でもある。男性Vtuberとバ美肉おじさんのセンシティブな二次創作をするとき、どちらにより抵抗を感じるか考えてみよう。中の人が秘匿されている男性Vtuberにおいては、そのキャラクター自身に主体があるため、ナマモノを扱う抵抗感が発生する。一方バ美肉おじさんは、中のおじさんに主体が残るため、相対的にキャラクターのリアル感が薄れ、抵抗感が低くなるのである。

今までの話をまとめよう。キャラクターに人間としての存在感を持たせるには、「中の人」の存在は大きな障壁だった。中の人が見えてしまうと、キャラクターの主体は中の人に引っ張られてしまう。だから中の人の存在は隠す必要があった。そこで要請されたのが「中の人などいない」である。もちろん、「中の人などいない」というのはフィクションである。だが、Vtuberという文化圏においてはそのフィクションは広く共有されている。これが、前段で言及したVtuber文化の特殊性だ。

この現象を逆から見ることもできる。「中の人などいない」というフィクションによって、キャラクター=演者という主体から演者の存在が消滅する。しかし、演者によってもたらされていた主体性は消滅せず、キャラクターを通して表現される。「中の人などいない」というフィクションのもとでは、その主体性が帰属する先はキャラクターしかない。その結果、キャラクターが主体性を持った人格を獲得し、「キャラクターが人間として扱われる」というVtuberコンテンツを誕生させることができるのである。


匿名アカウントとの違い:Vtuberというカテゴリの意義

インターネットにおいて、Vtuberのように現実の世界とは紐づかない人間としてふるまう方法は従来からあった。また、Vtuberは単なるペルソナの一つであり、従来の匿名アカウントの延長線上に過ぎないのではないか、という意見もあるだろう。以下の記事ではVtuberの特殊性について、『ペルソナとVTuberの違いとは、そこに「かたち」を与えることができるかどうかにある』と分析している。

筆者はこれについて否定はしないものの、これだけでは不足があるように思う。例えば従来においても、匿名アカウントが現実と切り離された個人であると扱われる例はいくつも存在した。ハンドルネームとブログやTwitterなどでアイデンティティを確立している人は数多くいるし、匿名での生放送主などは画面にキャラクターを表示させればやっていることはほぼVtuberと同じだ。身体性やフィクショナルな言動も、例えばMMOのロールプレイやオンラインでのTRPGで実現していただろう。これらの延長線上に2D/3Dのアバター文化を位置づけるなら、オンライン上の仮想の人格に「かたち」を与えることは、進歩ではあれど革新性はない。なぜなら、結局それらの後ろにいるのは現実世界の人間だからだ。その認識がある以上、現実世界の個人とキャラクターは分化できない。キャラクターをキャラクターとして存在させるためには、「中の人」の抹消が必要だったのである。

Vtuberという文化がもたらしたものは、「中の人」の徹底的なタブー視による「中の人などいない」というフィクションの共有である。中の人はいないという建前でもって楽しむVtuberというジャンルの成立が、VtuberをVtuberたらしめている。この点が、Vtuber文化が匿名文化の単純な延長にはない特異性を持つと筆者が考える理由である。

Vtuberとその中の人の秘匿については、下記の記事が参考になる。長文のため『中の人がタブー化された理由』の章にリンクを張っているが、後半の『Vtuberの「心身未分」』の章を中心に読み応えの文章になっているため、興味のある方は一読をお勧めする。


「中の人などいない」が「中に人はいる」

前章までの主張は、Vtuber文化が盛り上がった2018年ころの「中の人」に対するタブー視の風潮に強く表れている。Vtuber界隈においては、メタ話(現実世界の人間側の話)や実写映像などが忌避されてきた。オフコラボという概念も、あくまで「バーチャル東京」において、仮想的な手段でインターネットを介さずに会うという建前があった(と筆者は認識している)。しかしながら、これらの風習は2020年現在においては少なからず薄れていっているように感じる。少なくないVtuberがメタな話をしたり、実写配信を交えたり、東京に来たり住んだりしているのである。

この現象はある種、フィクションを都合よく使っていると言える。「中の人などいない」というフィクションを保持しながら、一方で現実世界の肉体の存在を肯定する、つまり「中に人がいる」ことを認めているのである。これは一見矛盾しているように見える。これはどう説明できるだろうか。

「中の人などいない」というフィクションは、キャラクターが主体を持ったキャラクターとして認知されるために必要だった。言い換えれば、キャラクターがそれ自身として一人の人間として扱われているのならば、わざわざ「中の人などいない」と言う必要はない。そして、人間である以上、肉体を持ち、生活をしていても何ら不思議ではない。つまり、「中に人がいる」のは不自然なことではないのである。そして当然、中にいる「人」とは、そのキャラクター自身のことだキャラクターが完全な主体としてみなされる限り、そのキャラクターが現実世界で肉体を持っていることは許容されるのである。

人によっては、「中の人」要素、つまり現実世界の存在やメタ的な言及を好まない者もいる。また、実写配信などは現実を強く想起させるため、避けている者もいるだろう。これらのメタ的な言動は時に「中の人などいない」というフィクションを破壊してしまう。そしてそれが破壊されてしまうと、キャラクターを純粋に見れなくなる。このフィクションの強度は人によって違うし、また中の人の存在を感じてもVtuberを楽しめるかどうかも人によって異なることには注意が必要だろう。

Vtuberのメタ的言動に寛容になってきているのは、Vtuberを人間のような主体的存在として扱うという文化の広がりが大きい。ただしそれは、「中の人などいない」が不要であることを意味しない。顔出しをしながらバーチャルとして配信をする者も増えているが、彼らのように予めそのように活動している場合でない限り、例えば顔出しなどはVtuberの主体性を大きく損ないかねない。キャラクターと「中の人」の間に差異が大きいほどそのリスクは高まる。「中の人」の存在は、容易にキャラクターを飲み込みうるのだ。

一方で、「中の人などいない」に反しない限りにおいて、中に人がいることは表現の幅を増やすことにもつながる。無論好き嫌いもあるだろうが、Vtuberそれぞれが自分のやり方で活動ができるのが望ましい形だろう。メタや実写を排斥する必要はない(住み分けは必要かもしれないが)。


Vtuberが「受けた」理由

Vtuberがなぜここまで広まったのか。その理由は「人格を持ったキャラクター」を生み出す手法、つまり「中の人などいない」というフィクションの存在が、コンテンツの供給側・消費側双方にとって望ましいものだったから、ということに他ならない。

このようにして成立したVtuberというコンテンツは、キャラクターコンテンツの提供側、演者側(個人勢は提供側と演者を兼ねる)、リスナー側それぞれに今までにないメリットがあった。特に提供側に多くのメリットがあり、それがリスナーの需要を喚起したというのが大まかな筆者の見解だ。では、具体的にどのようなメリットがあったのか。それぞれの立場で見てみよう。

・提供側

提供側にとっては、当初の目論見通りかはともかく、「魅力あるキャラクターの簡易な・大量供給」が実現できたことが最大のメリットであろう。個人勢などは複数のキャラクターを展開することが難しいが、単独キャラクターであってもより簡単に魅力を持たせられることは利点として残る。

Vtuber以前のキャラクターコンテンツは、主に作品の中の登場人物であり、完全なフィクション存在だった。つまり、作品という舞台があって、その中にキャラクターたちがいる、という構図だ。そしてコンテンツ供給者は、作品に必要な世界観、ストーリー、そして何人ものキャラクター造形を作る必要があった。必然、1キャラクターの描写に割ける力は限られたものになる。ストーリーやキャラクターの描写を担当する人間は基本的にそこまで多くなく(小説や漫画などは1人が担うことがほとんどである)、十分な描写がなされた魅力的なキャラクターを生み出すのは大変なことだ。

一方Vtuberはキャラクターを生み出すという観点で見るとかなりハードルが低い。活動する舞台は現実世界とほとんど同じ情報を持つバーチャル空間である。そしてキャラクターの人格は実在の人間を転用することで用意できる。キャラ設定に合わせて加工は必要かもしれないが、実際の人生に勝る設定資料は存在しないだろう。Vtuberは必然的に生身の人間と同等の深みを持つ。つまりは強制的に「キャラクターが勝手に動く」のと同じ状態になる、と言い換えてもいい。そしてなにより、そのキャラクターが魅力的であるためには、1人の人間に魅力がありさえすればいいのだ。

また、Vtuber独自の強みとしてインタラクション性も挙げられる。リスナーあるいは世界に対して、Vtuberは個別の反応を返すことができる。これはリスナーのコメントに対してそのコメントだけのための応答を返せるということであり、現実世界に無数に存在するニュースや作品に対して反応できるということであり、Vtuber同士で固有の交流が持てるということである。

キャラクターの挙動をコンテンツ供給という観点で見ると、従来のキャラクターと比べてVtuberの供給量は文字通り桁違いである。出来事に合わせて無限に生成される台詞やリアクション、他者との交流によって発生する関係性などが全てコンテンツとして供給される。これは特に生配信主体のVtuberに顕著だろう。実在の人間をキャラクターに転用することで、従来ではあり得ない量のコンテンツを供給し続けることを1人の人間の力で可能にしたのがVtuberという発明なのだ。


・演者側

Vtuberを演じるプレイヤーにとっても、Vtuberになる、という選択肢はメリットがある。人前に演者として出ることを志すとき、競合する選択肢としては声優やアイドル、YouTuber、俳優などが考えられる。ほとんどの選択肢に対して優位な点は匿名性である。声以外の個人に紐づく情報は公開されない。匿名性に伴い、人格の分離が容易である点もメリットになる。つまり本名での言動がキャラクターに影響することはないし、その逆もしかりである。

生主や匿名の配信者・実況者と何が違うのか、というのはよく言及される点ではあるが、これらに比べても明確なメリットがある。1つは、キャラクターコンテンツが好きな人間に対するリーチが容易であるということである。2次元のキャラクターというインターフェイスがあることで、キャラクター好きな層に興味を持ってもらうことができる。そしてもう一つは、「人間以外になることができる」ことである。つまりロールプレイができるということだが、これは演者側の表現の幅を広げることになる。端的に、通常の配信者は人間であることを止められない。2次元キャラクターを噛ませることによって、そこに設定を差し込む猶予が生まれ、人間以外としてふるまうことができるのである。


・リスナー側

リスナーがこれほどVtuberに惹かれるのは、ひとえに深みのあるキャラクターゆえであろう。フィクション上のキャラクターと比べて、実在の人間の情報量は桁違いに多い。アニメやラノベの成功要因として、ストーリー以上に重視されることもあるのがキャラクターだ。Vtuberはストーリーを切り捨てた代わりに、キャラクターを極限まで掘り下げたものと見ることができる。キャラクターを重視して2次元コンテンツを見ている層にとって魅力的に映るのは必然と言える。

キャラクターの深さという観点で言えば、生身の人間が一番深みがあるという指摘はもっともだ。しかし、生身の俳優やアイドルは刺さらない2次元好きな人間が存在するように、3次元と2次元ではカテゴリーが違う。キャラクターコンテンツという土俵で戦えることこそが、Vtuberの強みである。筆者個人としては、生身の人間はコンテンツとして見ることに抵抗感がある。しかし人間をキャラクターでラップすることにより、不要な情報が捨象され、都合の良い部分だけをコンテンツとして享受できる。従来のフィクションキャラクターよりは人間らしく、人間よりはフィクションに寄っているのがVtuberという存在ではないだろうか。


VtuberのこれからとVR

ここまでの議論で、Vtuberがどのような構造をなし、なぜ受容されているのか、筆者の見解を述べてきた。Vtuberは文化も含めた構造的な発明であり、決して一過性のブームではない。需要は今後も拡大していくだろう。Vtuberの潜在顧客は2次元キャラクター好きの人全体だ。そう考えると、伸びしろはまだまだある。また、年々2次元キャラクターを好きな人は増えているだろうから、急激に頭打ちになるということはないだろう。

一方、今までの議論で、VRについては一切触れずにきた。実際のところ、VtuberはLive2Dの2次元モデルで十分に成り立つ。VR技術やトラッキング技術の向上は、Vtuberの表現の幅を広げ、リスナーの体験を深める方向に働く。すなわち、VRをはじめとしたVtuber周辺技術はVtuberとの相補関係にはあることは確かである。しかしながら、本稿で解説したVtuberの構造にはVRは出現しない。Vtuberは様々な技術に支えられて成立しているが、その筆頭であるVRはVtuberの構成要素として必須ではない、というのが本稿の結論である。

VR技術の進歩によって、Vtuberは動きの情報をより詳細に伝えることができるようになり、リスナーと空間を共有することになるだろう。このことはVtuberを人間に近づけ、実在性を高めることになる。つまり、Vtuberが単なるアニメキャラクターではない存在として認知される後押しになるのだ。また、動きや空間の情報によってVtuberのキャラクターコンテンツとしての密度が高まることは、Vtuberコンテンツの強力な推進剤になることは間違いない。VR技術がVtuberにとって依然重要なものであるということを否定するわけではない、ということを最後に補記しておく。

Vtuberという文化はまだ成立したばかりであり、2020年6月現在でも日々めまぐるしく変わり続けている。筆者の理解が正しいか分からないが、本稿によって、Vtuber文化を見る視点の1つを提供できたのなら嬉しく思う。筆者とは違う見解をもつ読者がいたらぜひ教えてほしい。


《過去記事:人間をキャラクターにすることについて》

《Vtuber論考記事一覧》


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