[さめのうた・夜宙ルク 猫の日SS] 変身

ある朝、といってもすでに日は高く昇っていたが、夜宙ルクは衝撃を感じて目を覚ました。いつものように同居人、さめのうたがのしかかるようにして自分を起こしたのだろう、と目を開けると、予想通りうたが自らの体の上に乗っているのを発見した。いつも通り華奢な体からは重さをほとんど感じなかったが、一瞥して違和感を覚えた。うたのさらさらと白く輝く髪の中から、同じく白い三角形の物体が飛び出ている。しばらく観察していると、うたが顔を上げてこちらを見つめてきた。心なしかいつもより愛らしい。そして髪から生えた三角形がぴょこりと動いた。

ルクは目の前で起きていることを飲み込むのにもうしばらく時間を要した。つまりは、これは猫耳だ。戸惑いながら、さめくん?と声をかけると、あろうことか、にゃ?という返事が来た。普段のうたなら土下座して頼み込んでも猫語で喋るなんてあり得ない。夢だろうか、とルクが天を仰ぐと、にゃーという声と共にうたが飛び掛かってきて押し倒される。軽い痛みと衝撃で、夢でないことを痛感させられた。

現実を受け入れると、急に空腹が襲ってきた。のしかかるうたをやさしくどかして布団から起き上がる。何か食べるものはあるだろうか、と思案して、ふとうたに目を落とす。
「さめくん…は何か食べる?」
「もう食べたにゃ」
うたが喋った。いや、喋るのは当然なのだが、ルクの混乱は深まるばかりだった。簡単に食事を用意してコーヒーを淹れると、ようやく頭が冴えてきた。どうやらうたとはコミュニケーションが取れそうだ。であれば、まずは本人に話を聞くべきだろう。
「さめくん、その耳とその喋り方、どうしたの?」
うたは首をかしげる。猫耳がつくだけでどうしてこんなに愛らしさが増すのだろう、とルクがまじまじとうたを見つめた。
「何言ってるにゃ?いつもどおりにゃ」
嗚呼、さめくんがいつもそんなに可愛かったらどんなにいいだろう、と思考が現実逃避を始める。分かったことは、うたにはその自覚がないということだ。考えるのを止めて食事を取る。今日は幸い予定はない。さて、どうしようか。

食事を終えてうたの方を見ると、うたは退屈そうに布団でゴロゴロしている。ルクにもだんだんうたが猫のように見えてきた。何より動きが猫っぽい。ルクが見ていることに気づいたうたが口を開いた。
「暇にゃ!構うにゃ!」
人語を使える猫はこんな感じなんだろうか、とルクは今まで見てきた猫動画の記憶を重ねる。ルクがうたに近づいてしゃがむとうたは嬉しそうに近づいてきてルクの服を掴んだ。そういえば二足歩行はできないのだろうかと足を見ると、うたのお尻からしっぽが生えていることに気づいた。しっぽは髪色と同じく白銀色だ。うたがルクの手に頬ずりしてくる。触り心地は人のそれだが、ルクにとってはもはや猫といっても過言ではなかった。
「にゃ~。ルク好きだにゃ~」
そういいながら体を寄せてくるうたにもはやルクは骨抜きだった。猫の愛らしさとうたへの好意が相乗効果でルクの心を奪っていた。ルクがうたを抱き寄せる。うたは嬉しそうにしっぽを振っている。いつもならあり得ないような言動は猫になったせいなのか、それとも秘めた本音だろうか。

頭を撫でてやると嬉しそうに目を細める。触れずに眺めていると手をてしてしとぶつけてくるのは猫パンチというやつだろうか。現実の猫と違ってアレルギーが出ないのはルクにとって幸福なことだった。猫を飼えたらこんなことをしてみたい、と思っていたことを片っ端からやってみる。ひらひらしたものを頭上に掲げると、うたは掴もうと体を伸ばす。うたの体長ではルクの目線まで掲げるとわずかに届かない。時には急にルクに関心をなくして逃げていくこともあり、そんなときは追いかけて構おうとしてもするりと躱されてしまった。そんなままならなさも含めて愛らしい。

気づくとすでに夕刻になっていた。うたは横になっているルクの上でまどろんでいる。ルクがうたの背中を撫でる。白い毛並みの艶が手に心地よい。
「さめくん、ごはんどうする?」
うたはひとこと、なー、と鳴いた。そうしよっか、とルクは応えて、うたの体を抱きかかえてリビングへと向かった。キッチンの床にうたを下ろすと、冷蔵庫をのぞき食材を確認する。
「さめくんは何食べる?」
猫の食事についてはあまり詳しくないのでとりあえず本人に聞いてみると、にゃ、とのことだったので同じものを食べることにした。丁度よくウィンナーがあったのでこれはさめくんにあげることにしよう。いくつかの野菜と一緒に炒めて適当に味付けをする。お米を炊くのは手間だったので冷凍されているものを使った。20分もかからずに食事の準備が整う。
「いただきます」
にゃー、とうたも手を合わせる。うたの肉球では当然食器を使うことができないので、ルクはうたを膝の上にのせて食事を口に運んでやる。細身な割にはよく食べるうただが、体長相応に食べる量は少なくなっているようだ。少なめに用意した夕食は二人で食べるのに十分だった。

夜は二人の定期配信がある。しかしこの状態ではうたの個人配信は厳しいだろう、という点で二人の意見は一致した。タイピングができないうたの代わりに配信を休むことをルクが告知する。ルクの配信に関してはやってもよかったが、この状況で平然と配信する自信が無かったのでせっかくだからとルクも配信を休むことにした。うたには言わなかったが、うたに話しかけると絶対に猫なで声が出てしまうから、というのが理由のひとつだ。

夜、久しぶりにたっぷりとした自由時間を得た二人は、懲りずにまた遊ぶことにした。もはやうたを猫として扱うことに抵抗のなくなったルクがうたを抱き寄せて息を吸う。いわゆる猫吸いだ。
「さめくんの匂いがする…」
全国の猫好きが夢中になるのも分かる至福の時間だった。しかしうたは恥ずかしいのかごにゃごにゃ言いながら体をよじりルクの手を逃れようとする。ルクが逃すまいと優しくしっかりとうたを抱きしめていると、しばらくして諦めたのかうたはおとなしくなった。
満足したルクがうたを離すと、うたは脱兎のごとくルクから逃げ出した。ルクがその様子すらいとおしく眺めていると、さみしくなったのか再び寄ってくる。うちの猫が世界一かわいい、とこの時確信した。

いつの間にか日付が変わろうとしていた。一日、体を動かして遊んだからだろうか、いつもは配信を始める時間なのにすでに眠気を感じていた。見るとうたも眠そうだ。
「もう寝る?」
なーといううたの返事もあくび交じりだ。朝から広げっぱなしになっていて遊ぶたびに踏み荒らされた布団を整えると、寝る準備をして灯りを消す。布団をかぶるとうたが潜り込んでこようとする。いとおしさを示したくて、寝る前にうたにキスをする。鼻の頭が湿っているのを感じる。そのままうたを抱きしめて布団に招き入れた。幸福な眠りが重力のようにルクの意識を引き込む。うたの体温を腕の中に感じながら、ルクは意識を手放した。

**

次の日の朝、夜宙ルクは衝撃を感じて目を覚ました。いつものように同居人のさめのうたがのしかかるようにして自分を起こしたのだろう、と思う。ひと一人分の体重が重力に従って落ちる重みで少し息苦しい。昨日早く寝たからだろうか、何とか腕を伸ばしてスマホを見るとまだ午前中だった。
「おはよう、ルク」
うたが体を起こし微笑む。いつも通り整って美しいうたの顔がルクを見つめていた。
「あれ、さめくん、昨日…」
昨日はとても幸福な一日だった気がする。そのことを確認しようとうたを見た。
「昨日?昨日なんかあったっけ?」
「いや、さめくんが猫になってたような…」
「なにそれ。夢でも見てたんじゃないの?」
うたが呆れ顔でため息をついた。確かに夢のような時間だった。でも、あれは夢だったのだろうか。もちろん人が猫になるなんてありえない、ということはルク自身も分かっていた。
「まあ、いいや。おはよう、さめくん」
うたが猫になったらさぞ幸せだろう、とも思ったが、別に猫でなくてもうたと過ごす日々は幸福なのだ。そう思いなおしてうたに笑いかける。
「ご飯にしよう」
ルクが起き上がり大きく伸びをする。その様子を見つめていたうたに気づくと、ルクは思わずうたの頭を撫でていた。
「ん…どうしたの、ルク」
「いや、なんか、撫でたくなって」
うたの顔が少し赤い。かわいいな、と思って、それから照れ臭くなって立ち上がる。そのまま足早にリビングへ向かう。
残されたうたが「にゃ」とちいさく呟いた。そうしてうたもリビングに向かった。


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