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乙女座(8月24日~9月23日)

 豊穣の女神デメテルに、ペルセポネという妙齢の娘があった。

 妙齢、といっても、ただ年齢が若い、というだけではない。
 ましてや、一人称に「ボク」や「オレ」を使ったり、語尾が「~じゃネ?」だったり、「マジ?」と「ウケるぅ」のたった二つの語彙だけで会話してるようなそこらへんの子を想像してもらっては困る。

 ペルセポネの人柄を端的に言うと、可憐で思慮深く、利発で玲瓏。
 レイロウなどという、書いてる本人でも肉筆ではとても書けない言葉で表現しなくちゃならないほどなのだ。

 立ち居振る舞いは藤間流の舞踏で鍛え上げた清楚さ。もちろんお茶やお華は人並み以上。琴は生田流名取の腕前、ナギナタは巴流の免許皆伝・・・・ん? 古代ギリシャにナギナタってあったっけ?
 いかん。どうも筆者の好みが出てくる。
 つか、筆者はいつの時代に生きてるんだ?

 ともかく、ペルセポネはそれほど魅力的で、しかも独身ときてる。おまけにこれといって付き合ってる相手もいない。
 当然、多くの男たちが憧憬(しょうけい)の念を抱き、その手を取ることを夢に見るほどであったが、中でも特に大物が彼女に白羽の矢を立てた(どうも言い回しが古いな。ナギナタにひきづられてるらしい)。
 冥府の王ハデスである。

 とはいっても、本気で見染めたはいいが、ずっと薄暗い冥府の奥深くで鎮座し続けてただけで、これまで女性とつきあったことなど一度もないハデスである。

 どうやったらナンパできるか、どころか、最初はなんと言って口をきけばいいのか、それさえ分からない。
 そのくせ、燃えさかる胸の思いだけはたっぷりだ。
 こういう人間がコトを起こすと、勢い、過激なものになりがちである。

 ある日のことである。
 ペルセポネはニューサ(この地名がどこなのかははっきりしない)の山あいで花を摘んでいた。
 花を摘むのは彼女が大好きなことであり、また、花の色を決定するという彼女の役割上、必要なことでもあった。
 同じ種類の植物でありながらたまに色が違うのがあったり、斑が入ったのが見つかったりするのはペルセポネがもっときれいにならないかといろいろ実験した結果なのである。
 だからペルセポネの草花に関する知識は実に豊富で、知らない花などあるはずがない。

 ところが――。
 今ペルセポネが訝しげな視線を送ってる先に、これまで彼女が見たこともない大きな花がひときわ高く咲いていた。

 花の形からすると水仙らしいのだが、ひとつひとつの花が握りこぶしほどもある。それに、水仙だったら一本の茎に数輪の花しかつけないはずなのに、目の前の花は何十とつけているし、香りも強烈すぎる。
 植物の専門家としてはこれを放置できるはずがなかった。持ち帰って研究してみなくては、――と手を伸ばしたときである。

 目の前の大地がなんの前触れもなく大きく割れ、地中から二頭のりっぱな馬に引かれた戦車が出現した。御者はおらず、見事な白銀の鎧をつけ、二股になった矛を手にした背の高い偉丈夫が自ら手綱を握っている。
 戦士とおぼしき男の顔面は白蝋のように青白かった。
 驚きと、男のまとう不気味な雰囲気に身がすくんで立ち尽くすペルセポネ。
 男はそんな彼女に手を伸ばし、楽々と小脇に抱えたかと思うと、馬に一鞭し、たちまち地中に没し去った。
 すぐに、大きく割れていた地面は静かにスッと閉じ、後には花々が咲き乱れた大地が以前となんら変わることなく広がっているばかりとなった。
 ペルセポネが水仙を見つけて亀裂が閉じるまで、ほんの数秒のできごとであった。

 ペルセポネの身にそんなことが起きたことなどなにも知らない母親のデメテルは、いつものように食事の用意をして娘が帰宅するのを待っていた。
 しかしなかなか帰ってこない。
 まぁ、若い娘のこと。何か興味をひかれるものを見つけて、時間が経つのを忘れているのだろう、と軽く考えて、最初の頃こそ気にも止めていなかったデメテルだが、しかし陽が落ちる頃になってもまだ帰ってこない、となると、さすがにただごととは思えなくなってきた。
 山道で足でも挫いて動けずにいるのではないか、崖に咲いてる花を摘もうとして滑ったのではないか。
 一度不安になりだすと、不吉な想像が次から次に浮かんできて、更に不安が増してくる。
 いてもたってもいられなくなって、とうとうデメテルはペルセポネが出かけるといってたニューサの山あいまで探しに行くことにした。

 着いたときにはすでに陽は落ち、あたりは星明かりだけである。

 松明のひとつでも持ってくればよかったのだが、とそこまで気の回らなかった自分に舌打ちしたい気持ちを抑えて、デメテルはすぐに捜索を開始した。
 といってもひとりである。やれることといったら娘の名を呼んで返事がないか耳を澄ませたり、物陰を見つけては、もしやペルセポネが休んでいやしまいかと覗いてみたり、崖があると気を失った彼女が倒れているのではないかと隈なく探しまわることくらいしかない。
 それをデメテルは一晩中続けたのである。

 乙女座は、我が子を心配してあちこち尋ね歩く、このときのデメテルの姿が空に映されたもの・・・・、らしい。
 らしい、と歯切れが悪いのは、この神話は乙女座の由来を説くもの、ということになっているくせに、デメテルがいつどのようにして星座になったのか、何一つ説明されていないのだ。

 だからこの神話は乙女座とは何の関係もないのではないか、との疑惑が古くからくすぶっているわけだが、まぁ、それでもこの神話がいちばん有力視されてることだし、とりあえず、このときのデメテルの姿である、ということにしておく。

 夜明け――。
 疲れ果て、着てるものもあちこちにできたかぎ裂きでボロボロになりながら、それでも探し続けているデメテルに朝の光が差し始めた。
 アポロンの太陽の馬車が山の端から天空に躍り出ようとしている。
 そうだ! 昼間ずっと天空にいるアポロンなら知っているかも、と閃いたデメテルは、あまりやってはいけないことと知りながら呼び止めた。
「アポロン! 待って!」
 いかに神話といえど、天空はるかな高みを行く太陽を、まるでタクシーでも止めるかのように止めてしまうのだから凄い。この技が使えたら、飛行機に乗り遅れたときに便利かもしれない。あ、いや、ダメだ。空の飛行機まで届くような長いハシゴがないから。
 しかしデメテルは簡単にやれたのだ。お話とは便利なものだ。

 突然声を掛けられて、アポロンは渾身の力で手綱を引かねばならなかった。
「ドゥ! 止まれ、止まるんだ!」
 天空を自在に走り回れるほどの悍馬なだけに、止めるだけでも一苦労なのだ。
「誰だ。こんなときにオレを呼んだのは。――なんだ、デメテル、あんただったのか?」
「これからお仕事というときに呼び止めてごめんなさい。実はペルセポネの姿が夕べから見えないの。あなただったら何か見たんじゃないかと思って」
 見るとデメテルの着物はあちこち汚れているし、脚も何ヶ所か傷つき、サンダルに赤い斑点がついていた。おそらく血だ。何度もつまずき、藪の中に入りもして一晩中探しまわっていたに違いない。
 声も半分枯れてるが、自分が疲れてることや怪我してる様子は表に出さないようぐっとこらえている。さすがなものだ。

「ペルセポネ? ハデスが強引に連れて行ってたみたいだぞ」
「・・・・ハデスが?」
 デメテルは半信半疑だ。
 オリンポスの神々の中でもひときわおとなしく、物静かなハデスである。
 巨人族を下したとき、この世界のどこを誰が治めるか籤引きで決めようということになったのだが、そのときハデスは一番籤を引いたにもかかわらず、静かなところがいい、と自ら冥界を選んだほどである。
 そんな性格のハデスが娘を強引に連れて行くなんて手荒な真似をするとは、にわかには信じられない。

 しかしアポロンは昼の間ずっと空から地上を見てたはずだし、なによりデメテルに嘘をつく理由がない。
「なんだ、知らないのか? ゼウスも承知のことだったらしいが」
 ゼウスが? だとしたらありうる。
 ペルセポネは、嫌がるデメテルをゼウスが無理矢理手籠めにしてできた子なのである。

 って、ここでもまたゼウスかよ。確かゼウスとデメテルは兄弟神のはずなのに、それを無理矢理に、とは。まったく見境いがない男である。

「じゃ、オレは行くぞ。ここでぐずぐずしてるわけにもいかんからな」
 アポロンが手綱を緩めると、馬たちは得たりとばかり走り出し、見る間に輝きを増しながら天空を駆けて行った。
「お引き止めしてごめんなさい。ありがとう!」
 もう聞こえないだろうとは思いながらも、デメテルはあわてて礼を言った。

 このときデメテルが太陽の動きをわずかな時間であっても止めたために、地球の回転と太陽の動きがシンクロしなくなり、後年、カレンダーにうるう年とかうるう秒とか入れて整合性をとらないとならなくなったのだ。ウソだが。

 ひとり取り残された格好のデメテル。
 その胸にはふつふつと怒りがこみ上げてきていた。
 家父長権の強かった当時、娘の嫁ぎ先を父親が本人の承諾も得ずに勝手に決めてしまうことなど、普通であった。
 ゼウスが承知さえしていれば、花嫁を略奪することさえ、まぁ可能ではあったのだ。

 実際、ハデスは本心からペルセポネを妻に、と望み、年下の兄弟であるゼウスにも頭を下げ、花嫁の父親に対する礼をつくして、結婚を正式に申し込んでいたのだ。
 数多くの話が残されているギリシャ神話だが、ハデスが自分から行動を起こした逸話はこの話だけである。
 なにしろハデスは、待っていさえすれば生きとし生ける者のすべてが、いずれはやってくる冥府の王なのだ。不死のペルセポネであっても、事件や事故に巻き込まれて冥府の住人となる可能性はある。時間は無限にあるのだから、それまで気長に待っててもよかったのだ。
 にもかかわらず、ハデスは積極的に行動を起こした。
 それだけハデスはペルセポネに本気だった証である。

 ハデスがそこまで見初めてくれたのは、それはそれで結構なことである。
 それに引き換え、許せないのは、母親の私どころか、本人の意向さえ確かめずに承知したゼウスである。こんなときだけ父親面するなんて。これまで一度も養育費を出してないくせに。
 まず、ゼウスが本当に承知していたのかどうか、それを確かめなくては。
 そう考えたデメテルは、その足でゼウスのもとを訪れた。

「ゼウス、お話があります」
 静かだが、迫力のある低音である。
「デ、デメテル・・・・、そ、その、久しぶりだな」
 どことなく目が宙を泳ぐゼウス。
 デメテルは怒らせると怖い。なにしろ、最終兵器「飢餓の呪い」が使えるのだ。
 以前にも、よせばいいのに、自分の屋敷を増築するために、デメテルの聖なる森を根こそぎ伐採した王がいたのだが、激昂したデメテルからその呪いを掛けられ、いくら食べても腹にたまらなくなり、最後には自分自身の体を貪り食う形で死に追いやられたことがあった。

 デメテルは使おうと思えばその呪いがいつでも使えるのだ。つまり全人類を「飢え」で人質に取っているようなものなのだ。ゼウスといえども、デメテルの怒りは相当に怖い。
 そして、ペルセポネが宿ったときのいきさつで、ゼウスはデメテルをもう充分に怒らせているのだ。
 これではいかなゼウスといえど、デメテルに真っ向から向かい合えるわけがない。

「ペルセポネの姿が見えないのですが、そのことについて何かご存知ではないかと思いまして」
 言葉が丁寧なだけに、迫力だけがびんびん伝わってくる。
 どんなに家父長権が強いといっても、母親を埒外に置いたままいつまでも放っておくわけにはいかない。それは当時としても同じである。
 ゼウスも、すぐに、いや、なるべく早いうちに、いや、そのうちに、デメテルはちゃんと言わなければ、とは思っていたのだ。
 しかしどうも敷居が高い。
 夏休みの宿題を目の前にした子供のように、明日にしよう、いや、きっと明日には、とダラダラ引き延ばしているうちに、しびれを切らしたハデスが実力行使に出てしまい、こうして当のデメテルに乗り込まれてしまったわけだ。
 この調子では、ハデスが連れ去ったことも、それを自分が承知していたことも、すっかり知られているのは明らかだ。
「いや、その、まぁ、ハデスならペルセポネの夫として不足はないだろうと・・・・」

 デメテルの双眸がギラリと光ったため、ゼウスは言葉を途切らせざるをえなかった。
 ゼウスとて、なにもハデスにいい顔をしたいからなどという下らない理由から結婚を承諾したわけではない。浮気相手にはほとんどなんの愛着を示すこともないゼウスだが、なぜか、その結果生まれてきた子供に対しては、ゼウスなりの(少しいびつだが)愛情を分け隔てなく抱いてて、今度の件も、ペルセポネによかれと思ってやったことだった。
 が、この一言で、すべて承知していたことを白状したも同然だった。
 デメテルの双眸に宿った光りが怒りの炎にかわり、今にも爆発せんばかりに一気に燃え上がった。
 来るべき災難に身構えるゼウス。
 が、デメテルは、底知れぬ不気味な沈黙を保ったまま、眼光だけは炯々とゼウスを睨めつけると、ひとことも口をきかぬまま踵を返してゼウスに背を向けた。
 ホッと息をつくゼウス。――だが、ゼウスはまだこのとき、デメテルの怖さを本当には分かっていなかった。

 そのころ、拉致されたペルセポネは、薄暗い冥府にあるハデスの宮殿で、デメテルに会いたい、地上に戻りたい、と涙を流していた。
 なぜ自分がいきなりこんなところに連れて来られなくてはならなかったのかが理解できないでいるペルセポネは、涙で頬を濡らすことくらいしかなすすべがなかったのだ。

 そんなペルセポネを前に、女性にどう対応していいのか分からないウブなハデスは、ただオロオロするばかり。
 ハデスなりに工夫して、金銀財宝を山と積んでみたり、綺麗なドレスを贈ってみたり、気が晴れるかもしれないと、イケメンの歌手を連れて来て彼女のためだけのコンサートを開いてみたりするのだが、どうしてもうまくいかない。
 もっとも、イケメンの歌手といっても、顔の肉は半分腐り落ちて頬骨が覗いていたりするゾンビ状態なのだから、却って不気味なだけだったが。
 それに、ハデスにはひとつだけ、もっとも重要なものが徹底的に欠けていた。
 笑顔である。
 死に笑みはふさわしくない。ハデスが浮かべられるのは、沈痛な面持ちだけしかなかった。

 一方、ひとことの挨拶もなしにゼウスの前から立ち去ったデメテルは、オリンポスさえ後にして、そのまま人間の住む地上世界へ降りて行ってしまった。
 それからデメテルは地上のあちことをかなり放浪してまわったらしく、あちらで見かけたとか、こちらを歩いていたとかの断片的な話だけはかなり残されている。それらを全部紹介しても意味がないが、彼女が最後に訪れたエレシウスの街での出来事はけっこう有名だからそれだけは書いておこう。

 エレシウスはアテネにほど近い街である。
 デメテルはこの街の外れで、やつれ果てた老婆の身なりで座り込んでいた。
 するとその街に住むひとりの娘が、彼女のあまりの惨めさを見かねたのか、声をかけてきた。
「おばぁさん、大丈夫? お腹がすいているんじゃない? 帰るところあるの?」
 なんだが、ホームレスに対する福祉課の職員のセリフそのままだが、娘に会えない心労と放浪のせいでデメテルはそれほどみすぼらしかったのである。
 そんな彼女に声をかけたこの娘は本当に優しい。お嫁さんにほしいくらいだが、名前さえ残っていない。なんとも残念だ。

「ありがとう、お嬢さん。いえ、もう私には帰るところもないんですよ」
 オリンポスに帰る気がなかったデメテルは正直にそう言った。娘はこれを、身寄りも住むところもなく、このまま放置しては路上で孤独死するしかない年寄りである、と受け取った。
「かわいそうに。――そうだわ、たしかデモポン様の乳母をやってくれる人がいないかって王女様が探しておられたわよ。まだ決まってないはずだから、行ってみるといいんじゃない?」
「デモポン様?」
「あら、この街は初めてなの? デモポン様は、まだお生まれになったばかりの、この街の王子様よ。連れてってあげる。さ、行きましょう」

 こうして娘は相手が神さまのひとりであることも知らずデメテルの手を引いて王宮に案内してくれただけでなく、乳母に採用してくれるよう、係官を説得までしてくれたのである。また王宮側も王宮側で、どこの馬の骨とも分からないデメテルをその場で採用し、育児に関することはすべて任せる、と全面的に信頼してくれたのだった。
 これではデメテルならずとも誰でもこの街がすっかり気に入って、一所懸命に働きたいという気持ちになるだろう。日本の企業経営者にもぜひ見習って欲しいものだ。

 さっそく翌日から仕事にかかるデメテル。
 神さまでありながら、こうして平気で人間の下働きもやれてしまうのだから、ギリシャ神話の神は偉ぶっていなくてなかなかいい。
 もともと豊穣の女神であるデメテルは成長しようとする者を慈しむ。そうした気持ちは乳飲み子にも伝わるもので、当の子供もデメテルをことのほか慕って、たとえ泣いていてもデメテルの顔を見たとたんに笑顔になったりするようになる。するとますます可愛らしく感じられるようになる。

 こうして毎日けっこう楽しく仕事していたデメテルだが、あまりに可愛く感じられるようになったので、いっそのことデモポンに不死を与えることにした。
 特別な功績もなにもないただの赤ん坊を不死にするなど、あまりやってはならないことで、おそらく掟に反するだろうが、今のデメテルにはゼウスを中心としたオリンポスの神々の掟など、もうどうでもよかったのだ。
 それだけ腹を立てていたし、またデモポンが可愛かった。
 本来死すべき存在である人間を不死にするには、体から死ぬべき部分を焼ききって取り去る必要がある。
 微妙な感覚が要求される繊細な作業だ。
 誰かそばにいたり、話しかけでもされたら、気が散っておそらく失敗してしまうだろう。

 デメテルは人目を避けて夜中に台所でやることにした。
 神の火を熾し、両手で抱えたデモポンの体をそっと近づけて、いずれ死ぬはずの部分だけを、少しづつ、少しずつ焼き切っていく。といっても物理的に肉を切り落とすわけではなく、赤ん坊が熱く感じるわけでもない。その証拠に、デモポンは安らかな寝息をたてて眠ったままだ。

 やってる側はいっときも気が抜けない。やり直しはきかず、不具合が発生したら二度と不死にすることはできない。いや、命にかかわるかもしれない。
 慎重に、慎重に、デメテルは作業を進めていった。
 当然、怖いくらいのすさまじい目つきになる。
 誰にも知られずに作業をしていると思い込んでいたデメテルだったが、実は見られていた。城の衛士である。夜中に目を覚まし、半分寝ぼけ眼で台所に水を飲みに来たのだ。

 その衛士が見たものは、この世のものとは思われる面妖な明かりにぼぅっと浮かび上がるデメテルの横顔だった。目つきは険しく、邪悪な光りが宿っているとしか思えなかった。
 しかもその腕は王子をひっつかみ、火にくべようとしているのだ。
 ハッと息を飲む衛士。目は一気に覚め、顔は恐怖に引きつった。
 が、さすがに衛士である。声はあげなかった。
 見られたところで邪魔さえされなかったら問題はない。が、この男、王国の一大事とばかり王と王女にすぐさま注進したのである。

 大事を聞きつけて急ぎ駆けつける国王夫妻。そして目にしたものは――。
 女王の悲鳴が闇を裂いた。
 ハッとして面(おもて)を上げるデメテル。
 恐怖に目を見開いている国王。
 卒倒せんばかりになっている女王。
 デメテルは思わずキッとした目つきで二人を睨んだ。儀式は完全に失敗である。
「そ、そなたは王子に何を・・・・」
「おだまりなさい!」

 もうこうなったら老婆の姿でいる必要はない。抱えていたデモポンを置くと、すっくと背を伸ばし、一瞬にして、厳しくも神々しいデメテル本来の姿に戻ってみせた。その光り輝くごとき彼女の姿に、それまで怖れ警戒していた王と王女は驚き、あわてて平伏する。
 まるで水戸黄門の印籠をつきつけられた悪代官のようなものである。

「王子を不死にする儀式をしていたのに、邪魔するとは何事ですか! 神の好意を粗末にする者には天罰を与えますよ!」
 天罰と聞いて二人は震え上がった。こんな小さな余力のない国である。天罰でも課されてしまったらたちまち滅亡だ。
「知らぬこととはいえ、大変失礼なことをしてしまいました。どうかお許しください」
 地面に額をこすりつけんばかりにして謝る二人に、デメテルも、この二人が分からなかったは無理もないし、ここで罰を下したら最初に親切にしてくれたあの娘も苦しむことになると思い直した。
「分かりました。それではこの地に神殿を造営して、私を祀りなさい。祈りが続いている間は罰しません」
「は、はい。直ちに開始いたすでありましょう」

 迷惑だったのは夜中に叩き起こされてすぐに神殿を建てるよう命じられた技師と石工たちである。目をこすりながら、なんでこんな時間から働かなくちゃならのか分からないまま仕事を急かされるのだからたまったものではない。その上翌朝からは、国民たちも強制的に駆りだされて石を運ばされたり組み立て作業に汗を流さなくてはならなくなってしまった。まったくいい災難である。

 そんな総動員の作業が連日続けられた結果、ほどなく小さいながらもりっぱな神殿が完成し、デメテルは満足気にその神殿に入り、そのまま籠もってしまった。
 もちろん、その後も、神殿では灯明が焚かれ続け、祈りの声も途切れることがなかったのは言うまでもない。天罰が怖かったから。

 これでデメテルとエレウシスの関係は一段落して落ち着いたのだが、地上世界全体はそれで済むはずがなかった。

 なにしろ豊穣の女神が乳母のアルバイトにかまけていたり、引き籠もりのニートになったりしてて、ちっとも本来の仕事をしてくれないのだ。大地は草も木も枯れ果て、収穫もできなければ、種蒔きもできないしまつである。
 なんのことはない、全世界に飢餓の呪いがかけられたのと同じになってしまったのだ。
 これがデメテルの本当の恐ろしさだった。
 当然、オリンポスには人間世界からの苦情の嵐が引きも切らず、なんとかしてくれとの陳情も間断なく寄せられて来る。中には、神々の責任を追求する声や、不信任決議採択の動議まで届けられるしまつ(ウソ)。

 困ったのは、その中心の責任者であるということになっているゼウスである。このままでは自分の地位さえ危うくなりかねない。
 虹の神イリスを使者にしてデメテルに送り、なんとかオリンポスに帰って仕事をしてくれるように頼んでみたのだが、いくらイリスが丁寧に口上を伝えても、「娘が帰ってくるまでは絶対にイヤです!」と、頑として首肯しない。

 これにはゼウスもどうすることもできなくなり、しょうがないので、ペルセポネをデメテルに返してくれるようハデスを説得する使者を送ることにした。
 ゼウスとしては自分の顔が潰れるのを我慢して全面降伏した格好である。
 使者に選ばれたのはヘルメスだ。こうした重要な場面を何度も経験しているベテランだったせいか、説得に成功し、ペルセポネはこうして地上に帰ることができるようになった。


 もっとも、その頃になるとさしものペルセポネもハデスの本当の気持ちが分かってきてて、自分が愛され、妻として求められているのも理解してきてたので、ハデスをなんとしても拒絶するという頑なさはだいぶなくなっていたし、むしろ、本当にずっと愛してくれ、大事にしてくれるのなら、このままここに居てもいいかな、少し薄暗いけど、と思っていたくらいで、どうしても帰る、というほどのことではなくなっていたのだが。
 それでも、まぁ自分の意思に反して連れて来られたのだから、帰れるというのはうれしかったりもする。

 そんな少し複雑な気持ちでいたところに、「ずっとなにも食べてない。それでは帰り着くまで体力が持たないから、せめて果物だけでも腹に入れてほしい」と果物籠を持って来られて、あまり深く考えもせずに、その中からザクロを取り、その実を三粒(四粒とも六粒とも)だけ食べたのだった。
 実はこれが陰謀だった。
 もちろんペルセポネは知らなかったのだが、冥界の食べ物を食べた者は冥界の住人である、という古くからの掟があったのだ。

「ペルセポネを手放したくないのなら、彼女になにか食べさせろ」
 この知恵をハデスにつけたのは、ゼウスであったとも、ヘルメスであったとも言われているが、あるいはペルセポネを諦めたくなかったハデス自身の考えであったのかもしれない。
 いずれであったにせよ、たった三粒であっても掟は適用される。
 かといって、厳格に適応してペルセポネを返さないと、デメテルが承知しない。地上は相変わらず枯れ木と枯れ草ばかりで、このままでは全人類が飢え死にしてしまうのはもう時間の問題となっている。
 といって、掟を曲げるのは示しがつかない。

 どうすればいいだろう、と関係者一同頭を抱えていたところに、ゼウスが調停案を出した。
 三粒食べたのだから、一年のうち、三ヶ月だけを冥界で過ごさなくてならない、としたらどうか、と。
 幸い、ハデスもデメテルも不満は残るものの、双方に配慮した案であると判断し、両方とも受け入れることに決まった。
 してみると、どうもこの三粒の一件は、自分の顔を最後の最後で立てたかったゼウスの入れ知恵だったのではあるまいか。どうもそんな感じがする。

 その後、ペルセポネはハデスの愛を受け入れて正式に結婚し、冥界は三ヶ月の間、王と王女の二人が共同で統治し、あとの九ヶ月はハデスだけでこれを統治する、という体制に改められることになった。

 毎年、ペルセポネがそろそろ地上に帰ってくるという頃になると、沈んでいたデメテルの気持ちも晴れ晴れとしてくるため、大地にはさまざな植物が芽吹き、盛んに成長するようになった。
 逆にペルセポネがまた冥界に帰らないとならない時期が来ると、植物たちは元気がなくなり、やがて枯れてしまうようになったのである。
 こうして地上に四季が訪れるようになった。

 なお、後年冥界を訪れた者の話によると、ペルセポネは冥界にある間、その地の統治者として采配のすべてをひとりで取り仕切り、ハデスは隅に追いやられ、発言権もなく、小さくなっていた、という。
 女性、おそるべし。
 まだ結婚していない男性諸氏よ、この事例を忠告としてよく記憶しておいてほしい。そして、この女性なら、という相手が現れたら、その相手よりもまず相手の母親を見ることである。

 母親は、あなたが結婚したいと思っている女性のウン十年後の姿そのものなのだから。

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