21.2.27|輻射熱

 2020年の暮れにも書いたけれど、内面的なことに感染症拡大などの外的要因も手伝って、しばらく仕事以外で知人にほとんど関わらない生活が続いている。(そんな状態でも声を掛けてくれる人というのはおり、なんて優しいのだろうと思う。)このまましばらく人との接点はTwitterで良いかと思っていたのだけど、この頃はそれもどうも気乗りがしない。その理由を考えていて、少し整理できたので書く。

 ここしばらく、Twitterを含めたインターネット上の情報の垣根の無さというか、下品な透明性のようなものに辟易してしまっている。行政や企業組織などは可能な限りオープンかつ明瞭たるべきだけれど、個人間の信頼関係は、内密で有限な環境の方が健全に育つんじゃないか。ともするとちょっと世間から後ろ指を指されそうな発言も目の前の人間の目尻の皺に免じて許してしまう、そういうことはインターネットの速度には乗らない場所で毎日起きている。すごく尊いことだ。

 加えて、互いの負担なく誰にでもリアクションを飛ばせるというシステムに以前ほど乗れなくなっているというのもある。単純に気分の問題かもしれないけれど、おそらく指向性が強すぎる自分の愛の性質に大元の原因がある。本当はこんなハロゲンヒーターみたいなやり方に拘らず、寒い国の建物の窓辺に付いたラジエーターみたいに、誰にともなく広い空間を静かな熱で満たしてみたい。いつかはそんな愛し方も会得できると信じているので、その準備期間のような心もちで日々を過ごしている。

 そんな経緯で、当座はあまりSNSは交流の軸足にせず、縁のあった人と「通話」「zoom」「文通」「会って話す」のうちどれかの方法で接点を持てたらいいな、みたいなことを考えている。できれば会って話せるといい。次点で通話だろうか。

 実際に話してみてお互いになんか違ったな〜と感じたらそのあと二度と話さなくなったり、オンラインでの繋がりを絶つことになったりするかもしれないけれど、本来信頼の構築とはそのように逃げ場のないものだった気がする。Twitterはいつでも「呟き」という言い訳で関係性からするっと後退できる。それが良いところなんだけれど、今は何だかざらざらしたリスクを引き受けたい気分でいる。

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