『ジョゼと虎と魚たち』を読んだ。
「釣った魚に餌をやらない」という言葉がある。この言葉を聞く状況のほとんどにおいて、「釣り」=「付き合う前のあれこれ」であり、「魚」=女性で、それを釣って餌をやらないのは男性であった。(あくまで個人の所見)
ただ、釣られた魚の方も飽きるし、あぶくを一つ吐いて、空を泳いで行くこともできるんだな、と思う小説だった。
『ジョゼと虎と魚たち』は、表題作を含めた9編からなる短編小説である。表題作は映画化もされていて、そのサントラと主題歌をくるりが担当していた。
私はそのアルバムを気に入って、原作を知る前から繰り返し聞いていた。それでタイトルを覚えていたから、手に取った。なんとなく短編集が読みたかったのもある。
読み進めて最初に出た言葉が「女の人の文章だ……」だった。少なくとも女の心を持っていないとこれは書けない気がする、と思った。
恋は叶う前が楽しい。関係性が未定の、不安定で甘い世界。ひとつの仕草や言葉だけで揺らいで、特有の精神の渇きを覚える。その人、という水槽にしか満ちていない甘露を少しずつ垂らされて、何をしていてもその甘さが浮かぶ。
釣り上げられて、とぷりと水槽に身体を浸らせて、その人だけの魚になるまでは、その渇きに喘いでいる。
この短編集はそういう渇きを丁寧に、熱心に書いているなぁと思った。
どの短編も好きだったが、「ジョゼ……」の光の強さは一等だった。
しばらくは忘れられない。映画にしたくなる気持ちもよく分かる。
個人的に気に入っているのが「男たちはマフィンが嫌い」。付き合っている年上の男を、男の所有する別荘で待つ話。
この話は先ほど書いた渇きとは反対に、渇きを存分に癒していた水槽が突然狭く感じて、置いてある飾りだって味気なく見えてしまって、だからさよなら。というような呆気なさも孕んでいるように思う。
短編の主役の女たちは、それぞれがそれぞれの形で男を想って、何らかの感情をあたためていてよかった。勿論それが行き着く先は幸せだけでは無いのだが、それも良いと思っているだろうし、実際そう思わせるような清々しさがあった。
私はろくな恋愛をしてこなかったし、これからもするかわからないから、こういう感想を抱けるのかもしれないとふと思う。身体を開かれて、心を預けて、そういう感情をあたためるようになって、水槽に浸かるようになったら、また別のことを思うのかもしれなかった。
というわけで未来の私、頼んだ。また読んでくれ。以上。
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