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世界線ラベリング

私はいつも、何かの名付け親になっている。

“名前をつけてやる 残りの夜が来て
むき出しのでっぱり ごまかせない夜が来て
名前をつけてやる 本気で考えちゃった
誰よりも立派で 誰よりも馬鹿みたいな”

上記はスピッツの『名前をつけてやる』という曲だ。スピッツの歌詞はいつもよくわからんが、これも例にもれずよく分からない。

でも、よくわからんと言いつつ、自分がいつも無意識に何かに名前をつけながら生きている自覚はある。

だから、今回は私が名前をつけてやる意識のないまま名前をつけてるなと思った出来事について話そうと思う。


美容室さんと私の世界線って、本当に同じ?

この前、行きつけの美容室でiPadに入っていた某科学・教育雑誌を読んでいたら、担当さんに言われたのだ。

「頭いいアピールがすごい」
「意識高い系じゃん!」と。

友人や妹からも、この美容師さんの何気ない一言に対して違和感を感じたという話はよく聞いていた。

だから、「ほー。わたしにもその時がきたか」と思っただけで特に気にしていなかったんだが、彼と私とでは生きてる世界線が違っていてなんかそれが面白かったので今こうやってnoteを書いている。ネタにしてごめんな。

なにかを読んでいるだけで「アピール」と解釈してしまう彼の世界線、毎日が誰かの自己主張大会って感じでみんなキャラが立ってんなと思う。

「自分なにもないな」って感じてる人がいたら彼の世界線に間借りすればいいのでは…?そこでは少なくとも何かを読んでいるだけで、彼が自分が思いつかないようなラベリングをしてくれるはずなので。

多分あの美容師さんのなかで私は「科学の雑誌とか普通に読んじゃう頭いいアピールしちゃう系・意識高い系女子」という人間になっている。

逆に私の中で彼は「なにかを読んでいるだけでアピールと解釈してしまう自己主張乱立世界に生きてる人」という認識になっている。

これは私や彼の感じ方がどうだとかいう話ではなく、私と彼は同じ世界で同じ物事を共有しながらも、解釈や受け取り方の違いでまったく違う世界に生きているというところに着目して話してるんだけどさ。

よく、「環境が人を変える」なんて話を聞くが、私は受け取り方や解釈が世界を変えるなといつも思っている。


ラベリングしラベリングされる中で忘れたくないこと

さっき話したようなことは日常的にたくさん起きる。ともすれば毎日起きる。

たぶん自分では思ってもみなかったような、びっくりするようなラベリングをされたり、逆にしたりしてるんだと思う。

いやなラベリングに直面した時、真っ向から向き合って改善しようと思ったり、拒絶してみたり、対処はいろいろある。

でも忘れちゃいけないのは、自分の世界線だけは誰にも譲っちゃダメだということだ。

「名前をつけてやる」
この意識が大事なんだと思う。

「名前をつけさせていただきます」
「名前つけちゃお」

じゃなくて、「名前をつけてやる」。

そうじゃなきゃ、改善も拒絶も軸がわからず曖昧で不安なものになってしまう。

基準なんて探せばいくらでもあるし、集団の中で暗黙のそれが存在している場合だってあるだろう。

でも、必ずしも従う必要なんてない。
自分の世界線を選ぶのは自分で、自分が幸せになれるような解釈をするのも自分だ。

たまに人の解釈の手を借りる時もあるけど、結局最後に頼りになるのは自分の受け取り方だ。

ラベリングを受け取るか、受け取らないか。
自分がしたラベリングをそのままにしておくか、剥がして新しいものを貼るか。

私はいつだって、自分の好きな世界線を守るラベリングと「名前をつけてやる」意識で楽しく生きていきたいと思う。

余談だが、「性格きつい」「なんでもハッキリ言う」の中身ってたま〜に”相手にとって嬉しくないラベリング”を口に出してしまってる事例だったりするので、口に出すラベリングは一回喉元で自分会議にかけて放出しような。

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