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書評|漂流する宛先、漂流する人間『書写人バートルビー』メルヴィル



受け取った手紙の宛先が違っている。「これはあなた宛てだ」と渡されるが、宛名が自分と違っている。違っているけれど自分宛なのだろうと受け取ることもあれば、そもそも配達不能になって誰にも届かない場合もある。

「先生」、「法律家」、「書写人」、「友人」。呼び名は時に役割を前提にする。法律家の先生であれば従業員に指示すること。書写人であるなら書写をすること。友人なら友人らしく自己開示をすること。呼び名が前提とする役割によって、その者は居場所を確保することができる。しかし呼び名が自分と違っていたらどうするか。この話にでてくるバートルビーは、宛先の前提を受け入れないまま居すわりつづけることで、最終的に命を落とすことになる。


今から百年前にはコピー機がなく、法律文書の複写は書写人が手書きで務めるものであった。1920年代のNYウォール街、バートルビーは語り手が経営する法律事務所に書写人として雇用される。不動産譲渡取扱、土地財産所有権取扱、その他晦渋な文章の書写業務に黙々と行うバートルビーははじめ雇用主に好まれるが、「そうしない方が好ましいのです」という言葉とともに仕事をやらなくなることで、経営者である語り手を悩ませる。互いに通じ合わない攻防の後、語り手は解雇を迫るが、それでも事務所に居つづけるバートルビーに業を煮やして事務所を移転。語り手のいなくなった元事務所ビルに居座りつづけるバートルビーは、警察を呼ばれて刑務所に送られることになる。




利益の論理、道徳の論理


原稿の読み合わせ、郵便局への使い、紐を結ぶ際の押さえなど。語り手にはバートルビーがなぜ雇用主である自分の指示に応じないのか理由がわからない。落ち着きはらった「そうしない方が好ましいのです」の消極的な抵抗に、語り手は怒るよりも狼狽をおぼえ、どうにかこの理解不能な存在を自分の中で位置づけようと苦心する。

ひとつめは経営者の立場からの有用性の理だ。他業務はしないにせよ、書写自体はきちんとこなす間は、その有用性からバートルビーを事務所に居させることは妥当である、と。
ふたつめはキリスト教徒の立場からの道徳の理だ。気の毒なバートルビーをここに居させることで、費用をかけずに善行を積むことができるのだから、自分にとって利益であり、妥当である、と。

そしてそれらの理解によって一時は、バートルビーの存在を受け入れ、かれが「常にそこにいること」をありがたく感じさえするようになるのだが、バートルビーの「人間らしさ」の欠如を知るにつけ、語り手は解雇を決心する。それまで無害ゆえに黙認されていた、呼びかけなければ話さず、食事はジンジャーナッツ・クッキーのみでどこにも出かけないバートルビーが、事務所に住みついていることが発覚して一転、それまでの語り手の同情心は嫌悪へと変わってしまう。家族や来歴をたずねても応えないバートルビーを、どう穏当に解雇に持ち込めるか画策していくことになる。




相手を前提づける宛先

 
経営者としての利益だけでなく、キリスト教徒の道徳観も重視する語り手にとって、解雇にあたっていかに自分が悪者にならず済ませられるかは大きな問題である。「脅したり、虚勢を張ったり、威張り散らしたりしない」手段として編みだしたのは、「バートルビーが出ていくということ」を前提にことを進めることであった。しかしその手段は失敗し、バートルビーは次の日も変わらず事務所に居つづける。あきらめない語り手が次に前提にするのが、「バートルビーが既に出ていったということ」だが、こちらも失敗しバートルビーは去らずに事務所に居つづける。解雇をほのめかせば自分から察して辞めてくれるだろうという当てがはずれた語り手は落ち込み、あたかも寄付のような形で渡した手切れ金がてつかずであることで、買収も不可能だとわかり驚愕する。

語り手はまたしても、バートルビーは神が自分にわりあてた存在なのだと宗教の理で納得を試みるが、しだいに周囲から疑惑の目を向けられはじめる。書写すらしなくなったバートルビーを事務所に居つづけさせることは、無用どころか評判を落として経営の脅威になるのではと危ぶむにつけ、語り手はついにある手段に思いいたる。そんなことがどうしてできようと動揺しながら読者に告白するその手段は、警察に取り締まらせることだ。けれど理由がない。不動のバートルビーを「浮浪者」と言えるのか、自活しているバートルビーを「生計手段を持っていない」と言えるのか。結局語り手は事務所を移転することで物理的にバートルビーの存在から逃避し、結果的に世間に判断を投げてしまうことになる。案の定、バートルビーの存在は周囲の不安を呼び起こし、かれは警察に連れられ「墓場」と呼ばれる刑務所へ入れられる。



配達不能郵便デッドレターズ

この短い話は、終始雇用主の目線から語られる。死で終わるバートルビーの顛末を話した後、語り手はバートルビーに関するあるうわさ話を付け足して語りを終える。バートルビーが以前、配達不能郵便取扱課の職員をしていたらしいという話だ。宛先に届かず漂着した配達不能郵便デッドレターズは、毎年山ほど焼却されこの世から存在を消す。語り手は情動のままに想像を語る。焼却される手紙の中の指輪や銀行手形は、届いていたら宛先の人物の人生を不幸から救えたかもしれない、宛先の人物に希望を与えられたかもしれないと。

最後「ああ、バートルビー! ああ、人間!」の嘆きで語り手は口を閉ざす。宛先に届かずこの世から焼却されゆく配達不能郵便デッドレターズと、届けば救えたかもしれない宛先の人物は、語り手が何度もバートルビーに試みた理解と、届けば死なずにすんだかもしれないバートルビーに重なってみえてくる。語り手がバートルビーに差し出して届かなかった数々の「手紙」は、雇用主・被雇用者の関係を前提とした仕事の指示。裕福な人・恵まれない人を前提とした施し。友人関係を前提とした頼み事。それらはすべて届かなかった。
語り手が、バートルビーが「出ていくこと」「既に出ていったこと」を前提に解雇へ追い込もうとした手段、相手を操作する手段の前提は、これらの届かなかった宛名にかさなっていくのだ。語り手は、自身が悪者にならずに解雇に追い込めるこのアイデアを我ながらあっぱれだと得意げだった。けれどそれは届かなかった。どれも「そうしない方が好ましいのです」の消極的抵抗によって、どこにも届かず配達不能郵便デッドレターズとなって漂流する。
そして、バートルビー自身もまた、語り手には漂着物のように見えていた。

だが彼は独りぼっちであるらしかった。まったくの天涯孤独の身のようだった。大西洋岸中部に流れついた、一片の漂着物。

どの前提を伴った宛先にもあてはまらずに漂って、理解不能とされるバートルビーは、届かずに居場所を失う配達不能郵便デッドレターズと重なっていく。

法律事務所内で日々取り扱われていたであろう公的な法律文書と、語り手が最後に引き合いにだす私的な手紙は対照的だ。終始バートルビーの理解に、周囲に申し訳のたつ公的な理解を見つけ出そうと苦心する語り手だったが、ひとつ印象的な場面がある。
周囲からバートルビーの責任をとれと言われ最後の説得を試みる際、語り手はこう提案する。

「私と一緒に来ないかね――私の事務所にではなく、自宅に。私の自宅で君の身の振り方をゆっくり考えることにして、結論が出るまでいてくれていい。さあ、今すぐ一緒に行こうじゃないか」

結局断られることになるのだが、ここには経営の理はなく、これまで語り手が気にしてきた道徳的な行いの域も越えているように感じられる。説得に応じなければ、公的な論理ではもう居るづけることが許されず「墓場」に送られるであろうバートルビーへの最後の提案が、私的な場所である自宅への移動の申し出だったのだ。
刑務所に送られ、食を拒み死にゆくバートルビーのその後を考えれば、かれに語り手の最後の私的な申し出が届けばよかったと思うだろうか。しかしそれは、バートルビーが公的な場所を失うことも意味する。
解雇に至らせる手段といい、これまでの話でお気づきのとおり、この語り手にはいささか欺瞞のにおいがつきまとう。語り手が読者に声高に主張するのは、いかに自分が真面目で几帳面で穏やかな性格で、社会的な地位があって著名人と知り合いであるかということである。いかに自分が道徳的で、バートルビーの方がおかしいか。結果的に死においやってしまったことはいたしかたのないことだったのだと。読者に向けたその過剰な説得は、語り手の自己欺瞞と正当化を浮かび上がらせるだけでなく、その身振りを強いている周囲、語り手がずっと気にしてきた公的な理を求める周囲と重なるものとして、そのまま読者に反射される。公的な理由を求めて逸脱を許さない周囲の目が、語り手の過剰な説得によって、読者とかさなりあっていくのだ。

冒頭で語り手はバートルビーの話をする理由として、「バートルビーの十全なる伝記を著すための素材が存在しないことが、文学にとって取り返しのつかない損失である」といって語りはじめた。なぜ「文学」なのか。宛先をもたず漂流するものたちが居つづけられる場所として、公的な論理とは別の論理が居られる場所として、「文学」という言葉を語り手は出したのではないだろうか。




「書写人バートルビー  ーウォール街の物語」ハーマン・メルヴィル
『アメリカン・マスターピース 古典篇』所収
編訳:柴田元幸
スイッチ・パブリッシング

ジュンク堂三宮店



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