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掌編小説『夜の海岸にて』


 夜を塗りつけたような車窓を見つめながら私は今日を思い返していた。在来線、私は乗降の瞬間にいつも一歩を逡巡する。特急列車は未だに乗れない。私は揺られながら、このままどこか遠くまで運んでくれればいいのに、と思わずにいることはなかったように思う。あんなことがあった今日も、結局はいつか忘れるのだろうと思う。

 六月某日、季節がわからない日であった。春ではなく、夏でもない。梅雨入りのニュースもまだ聞かない、そんな涼しく不可解な夜の日。
 私は列車を乗り継いで旧友と会った。何てことのないただの休日。肌を這う風に戸惑う以外は、取り留めもない休日だった。
 私は彼の自宅へ招かれた。今は郊外の住宅街で細々と一人暮らしをしているらしい。一頻り酒を酌み交わした後、彼は海へ行こうと提案した。
「ここから歩いて数分のところに海岸があるんだ」
 私は二つ返事で了承した。
「十分程しかいられないけど、それでもいいかな」
 特急に乗れない私にとっての終電は、二十分有余後に迫っている。
「あぁ、いいよ。それなら早く済ませようか」
彼はそう言うと、何かを乱雑にリュックへ詰めた。

 渚を間近に見たのは何年振りだろうか。一面真っ暗で水平線ははっきりと見えない。お互いの姿さえ辛うじて見える程度だ。砂を踏む靴越しの感触と潮の匂い、寄せる水際の律動だけが、私たちに海を確かなものと感じさせていた。
「忘れないようにしないと」
 私は終電を逃さないよう、スマホのアラームを設定する。
 彼もスマホを取り出して、不意にカメラを私に向けた。
「顔なんて映らないと思うか? だが、今日ここで撮ったという事実が後々効くんだよ」
 彼は数回シャッターを切った後、リュックから何かを取り出し、足元の砂地に投げ落とした。
「夏が待ち遠しいよな、今度一緒に海水浴でもしに来よう」
 彼はそう言いながら、リュックからもう一つ何かを取り出す。
「だがここに一つだけ、俺は先んじて夏を持ってくる」
 瞬間、燃える光。焦げる匂い。彼の手には燐寸マッチ
 明るくなった砂浜に見えたのは、包装袋に入った安っぽい手持ち花火だった。
「それ開けろ」
 私は言われるがままに包装を破る。
――後は体が勝手に動いた。私は一本の花火を手にし、彼の手元へ近づける。海岸に花火禁止の看板があったかどうかなど、この時は頭にも浮かばなかった。私はこの時点で、この後起こることをぼんやりと予感していたのかもしれない。目の奥が妙に熱っぽくなるのを自覚していた。
 彼も続いて花火を手に取り、燐寸の火を近づける。二つの花火が激しい光と音を吐き出す。カラフルに、少しチープに弾ける火。
 数秒経つと、彼は燐寸の火を吹き消した。神妙な面持ちに見えた。明らかに、「楽しい思い出づくり」ではなかった。

「死のうと思っていたんだ」

 花火はしゅうしゅうと音を上げているのに、私には彼の言葉だけがしんと聞こえた。
 彼はそれから暫くの間、ただただ花火を見つめていた。私もそれに倣って、花火が消え散るのをただ待った。

 次第に花火は光を失い、辺りには暗さが戻った。聞こえるのは波の寄せる音だけで、吐きそうな程に静かだった。
「死のうと思っていたんだ」
 彼は、目の前の旧友は、何かの確認のように言い直す。
「先日、ここの海で」
 暗闇の中、彼の顔はよく見えない。
「……結局助かっちまってなあ。生憎後遺症もないから心配すらされない」
 彼の顔は見えない。
「だからお前を呼んだんだ」
 しかし声は震えていた。
「お前になら、心配されなくていいと思ったから」
 直後、彼の顔が浮かぶ。手元には燐寸の炎が見えた。
「だがどうだ。お前も死のうと思っていたんじゃないのか」
 はっきりとは見えない。しかし、彼は確かに泣いていた。同時に、私は彼の言葉に驚いてもいた。
「お前の鞄にあった原稿用紙は何だ。お前にとって原稿用紙は何だ。あんなのがお前の書きたい小説なのか。ただ死にたいとだけ繰り返し書かれたものが、本当にお前の小説なのか」
 それは、一ヶ月もの間鞄に入れっぱなしになっていた薄い原稿用紙のことだった。
 まさに先月、私も自殺を図ったのだ。

 私は小説をひさぐ作家だった。毎日原稿を書いては出し、それらは全てが大作として売り出された。しかしそれも既に過去の栄光。今の時代、私の書く堅苦しい小説は売れない。「優しい」が求められる窮屈な時代に、苦しい物語は受け入れられない。
 他の作家が変化に順応する中、私だけは自分の書きたいものを書き続けた。結果、私は文壇を追われた――。
 職を失い、信念が揺らぐ中、私は気づけば原稿用紙に「死にたい」を百度書いていた。
 到底文学の風上にも置けないその駄文を遺書とし、私は身を投げようと駅へ行った。
 特急列車通過のアナウンスが聞こえ、私は一歩ずつ線路へ近づく。列車が轟音と共に迫る。あと一歩でホームを落ちる、その刹那、私は誰かに後ろへ引かれた。
――しりを着いた私の目の前を轟音が横切り、その後はよく覚えていない。スーツ姿の二人の男性と駅員が、大丈夫か、と声を掛け……その後はすぐ家に帰ったのだろうか。
 それから旧友である彼に連絡をもらうまで、私はどうやって過ごしていただろうか。何人と会話をしただろうか。何度外に出ただろうか。
 今日もその日の鞄のままで来てしまっている。彼は酒を飲みながらも、私の鞄から見える「死にたい」の文字を見ていたのだ。

 夜の海岸に小さな炎が揺れている。彼の頬には涙が見える。
 私は彼の方へと歩き、鞄から原稿用紙を取り出した。
 静かに、着実に燃えていく原稿用紙。
 大凡おおよそが灰になったところで、終電間近を知らせるアラームが鳴った。

 夜を塗りつけたような車窓を見つめながら私は今日を思い返していた。在来線、私は乗降の瞬間にいつも一歩を逡巡する。特急列車は未だに乗れない。私は揺られながら、このままどこか遠くまで運んでくれればいいのに、と思わずにいることはなかったように思う。あんなことがあった今日も、結局はいつか忘れるのだろうと思う。
 突如、スマホの通知音が鳴る。
〈写真を送信しました〉
 メッセージアプリの通知バーには彼の名前。送られた写真には、暗い背景に輪郭だけの私が映っている。
〈次は海水浴で〉
 恐らく、当分特急列車には乗れない。しかし間違いなく、何かが変わった夜だった。私は送られた写真を見つめながら、花火の匂いを思い出した。


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