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しゅうかんもどき

いくつか書き残したいと思いながら残すのをあきらめた文章をベラベラと思い返すように読んでいる。青臭いことも言ったし、バカみたいなことも言ったし。言いたいことの半分もかけてない文章力と忍耐力についたため息で風化させていく。「まあ、こんなこともありましたよね」って。

あの時本当に思っていたことはあの時の現実で、リアルで、実体で、大半だったのに、ゆっくりとまたは素早く過ぎる日々と日常に溶けて行って形なんて残ってやしない。

思い返すのは、もっともっと輝かしい未来になったら、日誌を書いて貯めてまとめるだけでみんなが見たくなるくらいに輝かしい実績がない限り、なんかだせえことなのかもって思ってるし、今まとめ始めているのはすでにダサいと自分でも思いつつ、それでも出しているのはこれが結局今の自分で、今の自分は変えようがないよなって思ってダサダサのまま、これからのためにまた残してバカだなあって言いたいなって、思ってる。

また、知らぬ間に消えた奴がいる。
アイツはよく女を泣かせる奴だ。
まあ自分自身も泣いているのかもしれないけど。
シラネ。
自分自身も、大切な誰かも、大切にできない人を大切に思うのは辛いってこと知らないんだよきっと。自分ならもっとうまくやるのにな、って思う。
自分なら飛ぶ鳥跡を濁さず、なんなら埋め立ててコンクリで固めてオリンピックの選手宿泊マンション建てられるくらい盛り上げてからそのスキにスッと消えるけどなって。
いやマンションは盛ったわ。選手村くらいにしてほしい。
まあ、とやかくは言わないけど、毎回許さんからな?
前回だって許してないし、だれがどうこうなんてシラネっすよ。
泣かした相手にすることなんてわかってんじゃん?
ごめん。で、ぎゅっ、よ。(真面目ゲージが減ってきた)

まあ、僕のnoteは僕の考えや思いを綴る場なので、私物化上等とはいえ、
個人的すぎるな。後悔はしてないけどな。
何か変なことが起きて有名にでもなったらすぐ消すねこんなん。
なんだこいつー!(ジョイマン池谷さんの口調で)ってなるもん。

閑話休題。

日々を忙しく生きる私たちは、誰かのために使う時間を愛とすることが多い。そうせざるを得ない「今」にまいっちゃいますね。ホント。
ただでさえ少ない愛情というものに時間という軸を加えるといつか呪いになるんじゃないかって漠然と不安を覚える。

でもまあ、仕方ないのかもしれない。
小学校の頃駄菓子を真剣に悩んだ100円と、amazonでまさに桁違いのものを気軽にぽちってしまう現状。日々尺度というものは変わっていき、物差しはいつも自分のものしか持っていられない。誰かの物差しで自分を測ったって得るものは何も無いのに僕らは共通のものを共有していなきゃ生きていけない。いきていけないというより、生きていけないように設計されている。この世の中が。いやってわけじゃないんだけどね。

この間どっかで見かけた文章の一つに
「人見知りなんかじゃなくて、今はちょっと人と喋りたくないなというタイミングが多いだけ」ってのがあって、なかなかに共感してしまった。
この感情って、たくさんの人にそう思っていることを知っている人が増えてほしい類のものではなく、もやもやして解決さえしてくれれば、理解されなくてもいいって思える感情で、そういったものが共感できたということにも感動していた。そして自分はまた誰かの言葉に自分を見つめなおせる人なんだって安心する。自分は自分でしかないけど、つながっているし、つながる。これが愛なのか。あ、でも飲み会は大丈夫です。うっす。
あれなんで、ソーシャルディスタンスなんでね。しゃーないっす。

あと、この間私、誕生日だったんですよ。
ありがたいことに祝ってくれる人がいたんですけど、その人たちに申し訳なさがやばかったんですよね。とりあえず寝よって思った一日でした。
この感情は、何を守るための感情なんだろう、って次の日考えてたら一日終わりました。もっと有意義に一日を使いたい。

以上、エッセイ風を勉強してたまにまにでした。たまにまに。





昔懐かしのCDとは異なるverのベロチュー。
愛ってなんすかね。誰よりも考えたら答えが出るんですかね?


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