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より善く生きていくための工夫

(今回のnoteは2023年8月に別の夜子のブログで公開したものを転載、編集したものになります。)


世の中も時間も待ってはくれないし、時間は皆に平等だから、その中で良く・善く生きていくための「工夫」というものはとても大切で、必要なんじゃないか…と思っている今日この頃です。
そういうことを考えてこなかったけれど、今そういう考えができるようになって良かった。

数年前の状態から今のことを考えると、不思議です。
あの時は重いうつ病で真剣に死を考えていたのに、今は絵を描くことに夢中で、その日や翌日が楽しみなまま寝て起きるということができていますから。
双極性障害の投薬はずっとしてるし、通院もしているけれど。
不安症だけは悪化してしまって頓服がお守りだけれど、過食嘔吐も治まらないけど…でもなんとかやれています。少なくとも死のことは考えておらず、明日、1年後、30年後、どうやって生きていこう?そのことばかり考えています。
そうやって振り返ってみると。もう生きるつもり満々ですね。老後のことまでかなり心配していますから。


近い未来、遠い未来を考えるようになったのは本当に最近で、今まで生きている実感がなかったため「生きていくってこんなに大変でつらいことなんだ」とか、みんなが持っているであろう現実感を心の底から感じています。もちろん、嬉しいことのありがたさなんかも感じながら。
胸が張り裂けそうなほど痛くて苦しくて、考えても解決することじゃなくて…という最悪な出来事に進行形で向き合っていますが、あまりにもつらい中で口から出てきた言葉は「みんなこんな気持ちを抱えながら働いたりしてるんだね」という言葉でした。
その言葉に自分自身でハッとして。そういう気持ちで常に人と関わらないといけないなと。

仕事をしてるとやはり会社や上司にカッカしたり、しますが。
私自身参っていてそんな余裕がない時のほうが多いかもしれませんが。
でも、人にやさしくして悪いことなんてないと思うのでした。

そして、人にやさしくできるのは自分自身にやさしくできている時だと思います。
もう、みんなが「自分自身にやさしく」と色々なところで聞いてると思いますが、実際のところ「それってどういうこと?どうやるの?」って。私はなります。なっています。
でも、それを「しーらない」と放ってしまうと自分の心や体の声が全然聞こえなくなってしまって、燃え尽きてしまう危険性があるのです。私がそうでした。数年前に限界が来て、燃え尽きて、今なお元の体力気力、戻りませんし、病気の前にはもう心身が戻らないことに悲しみも感じています。
「何かが違う」「できていたことができなくなった」…そういうことと向き合わなくてはならなくなりました。

仕事も思うようにできなくなり、いろいろな意味で孤立しているかのようです。なのに、そんな風に弱っていても社会や時間は待っていてはくれないし、時間は皆に平等だし。
いつも曇っていて、簡単に雨が降るようなこころを抱えていて。
心が弱っていたら体も弱ってパフォーマンスが落ちるし、疲れてしまう。でも、私は疲れたくないし、元気でいたいし、何も買わなくても、痩せていなくても、綺麗でなくても、喜びで満ちていたいと思いました。

その限られた時間と人生の中で、より良く・善く生きていくには…?そう考えるようになりました。
正解もやり方も分かっていませんが、自分の心の状態を常に知っておく、感情や日々のことを書き留める日記を続けていくことは徐々に私の力になったように思います。

鬱病の診断が出た日からほぼ毎日日記を書いています。
文章だけ、イラスト付き、漫画形式、なんでもいいので「今その時の気持ちを表すことができる形式」で書いていました。
読み返すと「こんなこと考えてたな」とか、「これはまだ悩んでるな」とか、「こんなこと考えてたっけ」と当時苦しかったことがいつの間にか過去になっていたりだとか、不思議な体験をします。
そうやって自分を知っていくために記録を作っていくのは「よく生きていくための工夫」の一つだと思うし、自分を客観的に見ていくことで自分にやさしくなれるんじゃないかな、と思うのでした。

こうやって文章を書くのも、もう少し頻繁にしていけたらいいのかもしれません。公開する、という前提で書くのもまた心持ちが違うのでプライベートな日記で出てくる人格や想いとはまた違う、けどそれもまた真実である自分が出てくると思います。
そういういろいろな自分と出会って理解していくのは、自分と生きていくのには大切なことなのかもしれません。


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