稽古場レポート①by斎藤明仁
『夜ヒカル』稽古場からのおたよりです。
本レポートは、2023年9月22日(金)に上演を迎える『夜ヒカル鶴の仮面』(作:多和田葉子、演出:川口智子、@くにたち市民芸術小ホール)の稽古場の様子を記録したものである。くにたち市民芸術小ホール(以下、芸小)は、2016年より国立市出身の作家・多和田葉子を特集する企画「多和田葉子 複数の私」シリーズを連続して展開している。本上演はそのシリーズの第6回目にあたる。出演者は公募によってマッチングした市民16名。
第一週:葬式はいつでも外国語で行われるものあたしは、
2023年7月29日(土)
今日のお稽古は、一日を通して小声で小さな身振りでおこなわれる。演出・川口智子が「今日はヒソヒソ族になりましょう!」と提案した後、ウォーミングアップがはじまった。フットサルコート大の空間を、全体がくまなく埋まるようにみんなで歩く。すれちがう際には挨拶をして、お互いの身体の調子を確かめる。今日この場にいる人は元気だろうか、自分はどうなのか、お互いをチューニングしてみるのがウォーミングアップの目的なのだそうだ。
次に、二人組で人差し指をつないで、先ほどと同じように歩く。そのとき、ひとりは目をつぶり、もうひとりはその人が行きたい方向へ行けるように支える。別の組とすれちがうときは、目をつぶっている人どうしがもう一方の手で触れるようにする。
筆者もこの輪のなかに参加した(参加者は市民12名と演出助手2名)。当然、目をつぶっていれば誰に触れているかはわからない。そもそも目を開けていても、知り合ったばかりの他者に触れることは不安で怖いはずだ。だが、実際に取り組んでみると全く違った感覚だった。目が見えないので、どのあたりを歩いているのかは判断できないが、手指が触れたその一時その部分だけ、まるで本当に見えているような感じになるのだ。それはきっと、歩くだけのワークショップを先におこなっていたからだろう。空間を埋めるために見渡していたのは、確かに空間そのものであるが、同時にお互いの身体(とその状況)でもあったことに、このときやっと実感できた。
最後にまた、歩くワークショップをおこなった。今度はひとりが自ずとリーダーとなり、全員の動作を案内する役を担う。リーダーとなった人は歩きながら様々な動きをし、他の人はそれを真似して後ろについていく。さながらカルガモのこどもたちである。一連の流れを見ていると(リーダーは自然と交代していく)、いろいろな身体があることに気づく。動きがゆっくりな人、先走る人、しなやかな人。リーダーは自分ができる動作をするが、必ずしも全員がついていけるとは限らない。屈伸するのが難しい人もいる。はじめは手を上下するだけだった動作も、やがてジャンプしたり横に転がったりと、徐々に複雑になっていった。
この日のテーマは、ヒソヒソ族としてお葬式をつくることだった。四人ずつ三組になって、誰が死んだのか、その人はどのような立場だったのかを決め、盛大に(ヒソヒソと!)弔う劇をつくる。三組はそれぞれ状況の異なるお葬式だったが、死んでいない者たちが故人の身体に触ろうとする点では共通していた。見えない糸で横たわる故人を起こしてみたり、上着を脱がせてみたり、あるいは故人に触った人が共鳴して死んでしまうこともあった。どれも本来のお葬式ではタブーである。けれども、弔いとは本来タブーをする感覚なのかもしれないと川口は言う。
2023年7月30日(日)
昨日とは違うウォーミングアップをした後、簡単なゲームがおこなわれた。川口が言った単語の文字数と同じ人数で集まるというゲームである。例えば、「ツル」と言われれば2人ずつ、「マッコウクジラ」ならば6人で集合する。しかし、このときの人数は市民12人+演出助手1名の13名であった。川口は意図的に人数を素数にして、全員が集まれないようにしている。
それはそのまま「台風ゲーム」(という名の遊びがあるかはわからない)に引き継がれる。立ったふたりが両手で屋根をつくり、ひとりがその下でしゃがむ。13人いるので毎回誰かが鬼になる。鬼は「おうち」「こども」「たいふう」のどれかを叫ぶ。「おうち」ならば屋根をつくるふたりが、「こども」ならばその下にしゃがむ人が、「たいふう」ならば全員が、それぞれ解散して別の人と集合する。稽古場で様々な遊びがおこなわれるのは、川口の演劇の特徴のひとつである。くにたちオペラ(「多和田葉子 複数の私」シリーズVol.5)のお稽古では動物たちの運動会が開催されたし、豊橋(高校生とつくる演劇)ではバンブーダンスばかり練習していたらしい。
昨日とは形式を変えてお葬式をつくった後、各自持ち寄った楽器を使ってパフォーマンスをした。楽器紹介という目的で、ひとりずつ無言で演奏をする。踊り歩く人、怪しい商人みたいな人、フォークソングを奏でる人もいた。音程が明確な楽器では、どうしてもメロディーを弾きたくなるらしい。打楽器など倍音の多すぎる楽器のほうが柔軟な演奏であったように思う。とはいえ変な楽器が集まっている。ギターや横笛もあったが、オーシャンドラムをはじめ、ハングやプーンギのようなものまで、一体どこでどんな理由で入手したかが気になるものばかりだった。
徐々に「(音楽)」のベースがつくられていく。次は全員が一列で行進しながら演奏をする。誰かが自然とソロパートを奏で、他の人はそれに合わせてトーンを落とす。重要なのはお互いの音に耳を開いていくことである。
昨日の歩くワークショップの応用だが、すぐには上手くいかない。はじめのうちは自分の演奏で精いっぱいのようで、楽器も倍音を生み出すことはなく、ただガチャガチャと音をいわせているだけだった。時間が経つにつれ、ようやく市民たちの耳が開いていき、良い和音が聴こえてくるようになった。今後、回数を重ねるうちに、自分たちが発生/声させる風の音とも共鳴し合っていくことだろう。
この日の後半は本読みだった。川口が事前に決めていた配役のもと、何度か台本を音読した。今は科白が覚えられていないからこそ、読むときに意図せずけつまずいてしまうが、けれどもこの科白がすべってころんでしまう感覚は、実は多和田の戯曲が本来持っているものでもある。本番では、きっと全員の言葉が故意に転ぼうとするだろう。一週目にして上演の姿がすでに見えてきている。素敵なメンバーだと思う。