実はちょっと前から異世界に引っ越してた話
魔法街という場所がある。
ある日、仕事も私生活も何もかも上手くいかず、ならばいっそと首を括る縄を買いに玄関を開けたら、そこに出た。それ以来、僕は地球とその不思議の地を好き勝手に行き来できるようになった。だから知っている。だけである。
変な場所である。空のかわりに天井があり、上のほうは真っ暗なのに地表部はずっとほのかに明るく、そして暖かい。そこに雑然と建つレンガ造りの隙間を縫うように往来する人々の風体など、時代も地域もバラバラ、それどころか人かどうかさえも疑わしい者もあるような多様さであり、初めて立ち入った時は希死念慮のためにとうとう気が狂ったかと思った。
その後多少の紆余曲折を経て、僕はこの街で暮らすようになった。帰りたい実家もなかったし、恋人にも出ていかれたばかりで、どのみち死ぬ予定だったのだから、この奇妙を受け入れてやろうという気持ちがあった。
無論タダでというわけにもいかないので、仕事も見つけた。僕のようにふらっと迷い込んでしまう者は時々あるらしく、そういう困ったさん向けの短期労働の斡旋所があるのだ。そこで初めてありついた仕事がきっかけで、僕は"先生"のところで住み込みで働かせてもらうことになった。
先生は魔法を作ってよその世界へ販売する職人である。僕の初仕事というのは、彼の家事手伝いだった。なんでも納期が差し迫っていたらしく、家のことをする暇がなかったとかで、掃除だの炊事だのを申し付けられたのだ。食いたいものはありますかと聞いたら何でもいいと言われたので、飯をありものと炒めて出したら、これが大層よろこばれた。正式にうちで雇ってやると言われたのはその日の晩だった。
家事と言ってもそんなに忙しいことはない。先生は朝早くにさっさと離れの工房にこもってしまうし、もとより中年オヤジが独りで暮らしている家だ。最低限の掃除と日中の軽食の支度をしたら、夕食の献立でも考えながらあたりをぶらつくだけの暇はあった。特段料理が好きということはなかったが、嫌味な上司のことも出ていった同棲相手のことも考えなくていい暮らしは悪くない。少なくともこの暮らしが始まってからほどなくして、死にたいと思うことはなくなった。
気を付けなければいけないのは地理のことである。これもまた奇妙なことだが、どうも魔法街の地形は日によって少しずつ違うらしい。徒歩5分圏にあった店が翌日には何キロも先まで移動していたこともある。先生は、街だって生きているんだからそういうこともある、と僕に聞かせた。そして、よく行く店ならそこで鍵を作っておけと教えてくれた。地球の常識で言うと、コンパスに近い役割だと思う。店ごとに発行してもらえるこの金属片を持っていると、対応する店のおおよその方角と距離が分かるのだ。目当ての店が近くにあるうちに、使うものならまとめて買っておくのが魔法街の生活の基本だ、と結んだ先生は、いつ読むのだか分からない新しい技術書を山と抱えていた。
このあたりからうっすら察し始めたのだが、先生は金持ちの部類らしい。ある晩二人で酒を飲んでいるときに、先生は自身が魔法街に住むことになった経緯を教えてくれた。
先生の元いた世界は、僕たちの感覚でいうところの"剣と魔法の世界"だった。先生はそこで宮廷魔術師の下請けをしていたという。汚い仕事さ、とキザっぽく笑って詳しく話そうとしない先生に、酔った勢いでしつこく問い詰めたところ、ドラゴンのフンをパンに変換する魔法の開発をさせられていたことが分かった。変なところで見栄を張るオヤジである。
移住のきっかけになったのは、その職場の先輩が病で倒れたことらしい。公私共に世話になっていた当時の先生はすぐに見舞いに行ったそうだが、先輩は先生の顔を見るなり、お前は俺のようにはなるな。若いうちにやりたいことをやっておけ、と言い出した。それを聞いた先生は翌週には仕事をやめ、魔法街で職人として生活する道を選んだのだという。前職の経験のお陰で、引っ越した直後からそれなりの蓄えを築けた、というのが今の羽振りの理由らしい。
それでは先生、亡くなられた先輩の言葉に報いて今こうして職人をしているのですね。立派ですね。と言うと、先生きょとんとする。どうも妙だと思って掘り下げてみると、先輩が患ったのは盲腸で、先生が仕事をやめた数日後には復帰していたらしい。この人騒がせにも閉口させられた。悪い人ではないのだが。
魔法街での暮らしも、そろそろ二年目になる。男二人の住まいは少しばかりむさ苦しいが、さして不自由ではない。悩みは減り、料理というちょっとした趣味が増えた。及第点だと思う。
また語りたいことができたら、続きを書くことにする。暇人の日記を見てくれてありがとう。またそのうち。