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essay|ひとりだからこそ、どこへでも

一人の意味
「ひとり」とは、
そこは、様々な意見が出そうですね。個人にお任せします。

私は「ひとり」…嫌いではないです。

ひとりが嫌いではないと言っても、私はきっと、本当の意味で一人ではない。
ひとりで行動する気楽さ、自分自身のアンテナに正直になれる時間を思う存分に楽しんでいるだけ。
(この一人行動の楽しさは、普段、休日や何でもない時間を一緒に楽しく過ごしてくれる友人・家族・恋人の存在があってこそという前提付きで)

「昔に戻れるとしたら、いつに戻りたい?」
よくあるこの質問、どれだけ考えても、私は「どこにも戻りたくない」が答えになる。
「常に今が一番だから過去を振り返らない!」とポジティブを振りかざしているのではなく、過去に未練がないのかもしれない。

勿論、顔が真っ青になるような失敗も不完全燃焼な後悔も経験してきた。
だけれども、それらは時間が解決してくれたり、良いように考えれば、私を成長させてくれたエッセンスでもあるので過去に戻ってまでやり直したいことはない。


では、現状の満足度がものすごく高いのか、と聞かれると、まったくそういうことはない。
過去に戻りたくない大きな理由は、「今が自分にあっているから」だと思う。

幼少期は、ずっと同じ友人とつるんでいた。小学校と中学校が隣同士で並んで建っているので、年が変わっても、友人は変わらない。帰れば必ず家族がいて、会話の絶えない賑やかな毎日。
高校、大学と、今度は部活にバイトと、行動範囲は変わったものの、今から思い返すと、もっと自由だったはずなのに、時間に縛られた生活だった気がする。

「毎日スケジュールが埋まっていないと」みたいな概念が私の中にあり、スケジュール帳が埋まる=充足した毎日、といった謎の理念もあって時間に縛られていたのかも。
この頃は、まだ一人で行動することが得意ではなく、誰かといることに落ち着きを感じていた。大勢の人の波で暮らす中で、「誰か」とつながっていることが、行動理由であり、安心材料だったのだと思う。


今、この概念は一切ない。
先日、仕事の関係で、ある研修を受講した。
その中でウォーミングアップとして、「面白い・楽しい・嬉しい、それぞれどういったときに感じるか」という意見交換をしてきた。改めて、自分自身考えてみると、「面白い」は知らないモノ・知りたかったモノに出会った時、「楽しい」は誰かと幸せな時間を共有している時。
と、すれば、今は「面白い」に日常の充足感が傾いているのかもしれない。


学生から社会人になり、環境の変化で疎遠になる友人がいたりコロナウイルスの影響で人と会うのがはばかられ、一人時間が増えたり、大人数と集まる機会が少なくなったり、そんな中で、「際立って楽しくもないが憂鬱ではない生活」をおくる為に自分自身を支えていたのは「面白さ」だった。

社会人になり、親の扶養から外れ、一人暮らしをして、会社には行くけれど、ビジネスライクな関係を外すと、誰かと会おうと思わなければ、ずっと一人。
今はこの一人が心地よい。
意思決定も、時間の使い方も、なんとも自由の幅が広い。

「自由」と言っても、人が感じる閉塞感や解放感には差があるとは思う。個人的には、完全に「時間が有り余っている」といった事よりも、ある程度仕事や行事的な予定で縛られている中で生まれる、「自分が選択できる時間」という意味で自由という言葉を使う。
(拘束の無い立場は反対に自由ではないと考えて)

「面白さ」を得ようとしている時は「焦り」はない。先の事を考える度に、せっかちな私は焦りを感じて、それがストレスにもなるけれど、面白さと向き合う時間に「焦り」は入ってこないので、一種の現実逃避かもしれない。


他者から得るエネルギーをどう自分の中で循環させるか、ひとり時間によく本を読んでいる私が思うことです。
尊敬するひと・友人や、本を読んでいる最中に出会うハッと発見のある出会い、これらを自分のパワーにしたい!とよく思います。
そのエネルギーたちを、自分の身に染みわたらせることが出来るのが、私にとってのひとり時間。

その時間は誰からも影響を受けずに、したい事と向き合う。
ひとり時間が充足し、「昔に戻れるとしたら、いつに戻りたい?」と聞かれても「戻れなくていいや」と過去を選択しないでいられるくらいに、「面白い自分」でいさせてくれるのはそのエッセンスを与えてくれている、大切な人達のおかげです。

ここに前述の、「楽しい」から「面白い」の循環が生まれています。
いつもお世話になっている方々、ありがとうございます。

SNS社会。
会ったことがないのに、考え方や文章が素敵だな、という理由で「会ってみたい」と思う人達が何人かいる。

「ひとり時間」について考えている時に、「見知らぬ人と会ってみたいと思う自分」がいて、そのエネルギーに、孤独という道には進まないのではないかと、安心したりもする。

今は、これらを失いたくないので、ライフステージの変化だとか、何もしなくても変化する年齢なんかに、少し怯えているのかもしれない。
優しいぬるま湯に浸かっている気分です。

刺激は好きだけど、変化は怖い。(刺激は一瞬のスパイスのようなイメージ、また元には戻る。変化は今あるものを失って変わるイメージ)
そんな少し弱気だけれども、ぬるま湯も悪くはないかな、と甘えたな自分が顔を出している日々です。

ひとりだからこそ、どこへでも。何を得るか、得るためにどうするか、自由に考えられるのはひとりだからこその特権です。

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