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サイコパスなゴリラ

サイコパスなゴリラの話をしよう。

私の家にはサイコパスなゴリラが住んでいる。
なぜサイコパスなゴリラと生活を共にすることになったのか、未だに謎である。
その真相を突き止めるべく、私はサイコパスなゴリラの生態を観察することにした。


サイコパスなゴリラは人間に擬態している。
社会の中で人としての生活を営んでいる。

自分が人間に擬態したゴリラであるとの自覚を持っているのか、
はたまた本当に人間だと思っているのかは、定かではない。
ともかく彼は人間界で生きるゴリラである。


彼である


サイコパスなゴリラを知る上で、彼の信念を理解する必要がある。
ゴリラの信念は、

『宇宙で一番、俺。』

である。
「トム・クルーズより俺。」などと表現することもある。
サイコパスなゴリラは自分が大好きなのだ。

自分が大好きなゴリラは、よく鏡の中の自分に見惚れている。
彼はゴリラであるから、その足は短い。足の長いゴリラはいない。
クロップドパンツを10分丈で着こなせるほどの長さである。
故に座高も高い。
頭部も人間と比べると1.5倍程の長さがある。

そんな姿を鏡に映し、ゴリラは満足気な顔をする。
股下の長さも座高の高さも顔のデカさも、
『宇宙で一番、俺。』
という岩のような彼の信念を打ち砕くことは出来ない。


そんな強い信念を持つゴリラであるが、人間界の中では当然ストレスを受ける。
例えば交通渋滞である。
朝の通勤時、交通渋滞に巻き込まれたゴリラは、腹を立てる。
腹を立てたゴリラは、人間をせん滅したい欲求に駆られる。
交通渋滞なんぞを作り出して俺をイライラさせる人間どもは、この地球もろとも滅びればいい、というのがゴリラの言い分である。そして巨大な隕石が地球に落下することを祈り始める。
完全なるサイコパスである。
あと30分早く家を出れば良い話であるが、サイコパスなゴリラにはその理屈が通用しない。

人間である私は常々世界平和について考えているが、
サイコパスなゴリラの頭の中に世界平和など存在しない。
あるのは自分の平和だけである。



サイコパスなゴリラには、日本ゴリラ以外の種の血が混ざっているようである。
ゴリラはたまに、
「俺には大陸の血が流れている。」
と、遠い目をすることがある。
格好をつけているようだが、私にはただのゴリラにしか見えない。


サイコパスなゴリラは朝起きると、家中の窓を開け放ち、電気をつけ、大音量でテレビをつける。
HSPで低血圧の私には許し難い行為である。
私は起き抜けの頭で眉間にシワを作りながら、テレビを消し、電気を消し、窓を閉める。するとゴリラは驚いた顔をする。
何を驚くことがあるのか、ゴリラよ。おまえの習慣が全ての人間に通ずるわけではないのだ。


HSPで自己評価が低く、コミュ障で内向的な私と、
野生の本能むき出しの、高血圧で自分大好きゴリラとでは、趣味も好きな食べ物も生活様式も感性も考え方もまるで正反対である。

私は潔癖症なところもあり、過度に手を洗い、見えない菌にも敏感である。
ゴリラは菌など気にしない。
目に見えないものは存在しないのと同じであると思っている。
用を足した後も手など洗わない。それに気付いた私はゴリラに、
「石鹸で手を洗え。」
と言うとゴリラは決まって、
「アフリカやモンゴルでは……」
といった話をし始める。私はアフリカやモンゴルの話をしているのではない、おまえの手に付着している菌についての話をしているのだ、とゴリラを説き伏せ、手を洗わせる。
サイコパスなゴリラと生活を共にするのは一苦労である。



サイコパスなゴリラは映画が好きである。
私は感受性が人一倍強く、感情移入しすぎてしまう為、映画を観ることが出来ない。
大量に人が殺戮されるような映画やドキュメンタリーを観たら、年単位で引きずってしまう。暴力的な映画などもってのほかだ。

サイコパスなゴリラが好きな映画は【アウトレイジ】である。
北野武監督作品のヤクザ映画だ。
当然、テレビで観ることは許されない。サイコパスなゴリラは仕方なく、自分のスマホで映画を観る。

アウトレイジを見終わったゴリラは興奮気味に、
「三浦友和にも椎名桔平にも加瀬亮にも高橋克典にも俺は勝ってるけど、
西田敏行には勝てる気がしない」
と鼻息も荒く語り出す。
サイコパスなゴリラの感性は、私には全くもって理解ができない。


そんなサイコパスなゴリラにも苦手なものがある。
歯医者だ。
サイコパスなゴリラは歯医者が怖く、治療の際は診察台の上でその巨体をブルブルと震わせる。
そんなに怖いなら、夜中にトイレに行ったついでにアイスを食べてそのまま歯を磨かずに寝てしまうのをやめればいい、と私は提案するのだが、
野生の本能そのままに生きるゴリラにはこの話が通用しない。
まるで夢遊病のように、ゴリラは夜中にごそごそとアイスを食べる。
数か月後にまた彼は、歯医者の診察台の上でその巨体を震わせることになるであろう。


何故、このような謎のゴリラと生活を共にしているのか、
書き連ねてみたがやはりわからない。
私はこのサイコパスなゴリラを理解することは出来そうにない。

ひとつわかっていることは、
サイコパスなゴリラと暮らすようになってから、笑うことが多くなったということだ。
私は自力で笑うことが極めて苦手な人間であるので、これは大いに助かっている。
ゴリラは私の重い過去も深い悩みも止まらない思考も、すべてを笑い飛ばしてしまうのである。

そう考えると、このサイコパスで自分が大好きで歯医者に怯える謎のゴリラの生態の中には、人生を楽しく生きるためのヒントが詰まっているのかもしれない。


今日も私はゴリラに与える食事を作りながら、その生態を観察している。
ゴリラは今日も楽しそうである。






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