身体的女性のわたしは、スカートを履いて男性性を表現したい。

わたしの中の少女が、可愛い服に執着している

断捨離をした。洋服を山ほど捨てた。だけど、捨てきれないものがある。もう到底着ることのできない、タグのついたままの、150サイズのミニスカートたち。
派手目でちょっと強そうなブランドの、デニム生地のチュニックやふわふわの悪魔みたいなスカートが、わたしのクローゼットの中に眠っている。

Xジェンダーを自認しているわたしは、男性に見られたくて(表現したい性が男性で)、いわゆる”男っぽい”服を身に纏うことが多い。その傾向は中学一年生の頃からあった。でも、可愛い服も本当はすきだ。

ロリータファッションにハマったのは小学校高学年の頃。当時のわたしは、まだ「女の子」(であることに努める子ども)だった。男の身体になりたいという願望は生まれながらに持ちつつも、表現する性はもっぱら女性だった。
フリルのついた服を見ると心がわくわくした。テレビ番組でロリータファッションの存在を知り、一瞬でとりこになった。
ウエストのところで一度絞られ、また出発して描かれるスカートの曲線がたまらなく好きだった。
お年玉をかきあつめて、ロリータ服ブランドのセール会場で一番手ごろなワンピースを買った。うきうきした気分で家に帰り、袋から出して身につけた時に、気付いた。

「わたし、着たいんじゃなくて、見たいんだ」

ロリータ服を見るのが好きだった。あれはもはや芸術だった。自分で着るのではだめだ、鑑賞しなくては。
確かにわたしは可愛い洋服が好きだったけれど、それは自身の女性性を強調したいからでも、可愛くありたいからでもなかった。
クリームのように折り重ねられたレースや、美しい陰影を作るギャザーを、芸術品として愛でていたのだ。

メンズ服やユニセックスの洋服を着るようになった今でも、片付けをするたびに可愛い服を広げてみせる。捨てる事が出来ないのだ。150サイズのミニスカートたちを、なけなしの金で購入したロリータ服を、そしてそれらを欲するわたしの中の少女を。

もちろん、可愛い服に執着するのが少女だとは限らないし、少女だからといって可愛い服に執着するとも限らない。わたしの場合、少女(であることに努める子ども)だったわたしがこれらに執着している、という表現が適切だっただけだ。

様々な感情が交錯していく。短いスカートを眺めていると、これに憧れていたころの、「女の子」(であることに努める子ども)だったわたしがぴょこっと顔を出す。着たいという願望は幻想だったけれど、可愛いを欲するわたしは確かに存在していた。
自分らしくいられている今のわたしがわたしは好きだけれど、フリルのついたケーキのような洋服にあこがれていたわたしのことも、わたしは捨てたくない。

洋服というコンテンツ

洋服は、不自由の中の自由であると思う。わたしたちは、「着ない」という選択肢をあたえられていない。
家の中ならばどのような格好をしていても構わないだろうけれど、外に出るときは最低限何かを身につけなければならない(すっぽんぽんで外に出たら通報されてしまう)。その限られた選択肢の中で、わたしは自分らしい/自分が心地よいと思う洋服を身に着けようとしている。

スカートは、いまだに女の子が履くものだと思われている(のではないか)。どこかの国の民族衣装として男性が履くことはあっても、性自認が男性の人がファッションとして履くようになっても、スカートにまとわりつく女性性はすぐに払拭することができない、と思う。

わたしの表現したい性は男性だ。だからわたしは、自分が「男性らしい」と思う服を身に纏う。その中にスカートという選択肢はない。でも、本当は履いてみたい。

誰が履いても良いのだ。スカートは決して女性だけのものではない。だけれど、身体的女性であるわたしがスカートを履く(実は最近になって仕方なく履いたことがある)と、会話の中でシスジェンダーヘテロセクシャル(心と体の性が一致し、異性を恋愛対象とする人)であると決めつけられる場面が多い。いわゆる「普通の女性」(普通の女性/男性など存在しない)の規範から逸脱していない存在としてあつかわれる。それは、スカートという服装が、まだまだ女性性を強調するものであるからではないのか。

メンズ服を着ている時にも、性自認や性的指向について決めつけられることはままあるが、スカートを履いている時ほどには女性扱いされない。もしかしたらそれは、わたしがスカートに持っている偏見や女性性を、わたしが勝手に感じ取っているだけかもしれないが……それならそれでいいのだ。社会の方が進んでいるということだから。

もしそうでないのならば、わたしは主張したい。せいべつにとらわれることなく、好きな洋服を着たい!!!

量産型や地雷系など、ファッションに関する用語は時を経るにつれてどんどん増えていく。それに伴って、言葉によるイメージが固定され、ステレオタイプが生まれる。性別に関することだけでなく、ファッションに対する固定観念は少なからずあるはずだ。
こういう服を着ている人はこういうものが好きそうだ」というイメージはなかなか捨て去ることができないと、私は思う。

洋服は一種のコンテンツである。

その人の中身を知る前に、事前情報としてインプットされる(SNS上はまた別だが)。その第一印象が崩れることもあれば、それ通りの人間であることもあるだろう。
洋服によってイメージが固定化されることは、決して悪いことだと思わない。けれど、それによって生きづらさを感じたり、ファッションをこの上なく楽しむ事が出来なかったりする人がいるのは事実(スカートを履きながら男性を表現したい身体的女性のわたしがそう)だ。
洋服にまつわる凝り固まったイメージが、少しでもほぐされていけばいい。そうしたらもっと、いろいろな人が色々なファッションを楽しめるだろう。そして、わたしたちはもっと人の内面に焦点を当てられるはずだ。

わたしの中の少女が可愛い服を欲するのと同じように、わたしは男性性を表現しながらスカートを履きたい。性別にこだわらないファッションをと言いながら、男性性を表現したいという願望を持つ事こそ矛盾のように感じられるけれど、わたしはわたしに正直でいたいのだ(から、そこは矛盾していると思われても構わない)。

身体的女性の私が、スカートを履きながら男性性を表現できる社会にするために、いま何ができるのか、わたしは考えることをやめたくない。


←これ実は、猫じゃなくて、狼なんです。