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その言葉は定義されていません

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 昔テレビのドキュメンタリーを見ていたら、学生が先生に向かってこう言った。「その言葉の定義がわかりません。」「定義がなければ、それについて議論しても意味がないんじゃないでしょうか。」一見すると、この学生の言っていることは、もっともらしく聞こえる。しかし、それがもっともらしく聞こえてしまうところに、じつは言葉のトリックがあるような気がする。
 「お腹空いた」という言葉は、もちろん「空腹である」ということを表している。しかし、空腹であることを表明するために、「お腹空いた」という言葉を使う人間は、ほとんど皆無であろう。それは子供が発したなら「ご飯が食べたい」という意味だし、友達どうしの会話なら「どこか行かない?」という意味だろう。「お腹が空いた」と言われて、その言葉の定義、つまり空腹とはどういう状態か?ともし訊かれたら、コミュニケーション障害を疑わなければならない。事実、自閉症スペクトラム症候群では、しばしばこのように、言葉を文字通りの意味でしか理解できないからである。
 スケジュールの都合を理由に聖火ランナーを辞退する芸能人が相次いでいるが、まさか本当にスケジュールが合わないと思っている人間はおるまい。むろん、「こちらの都合という体にするから、辞退することについてはとやかく言うな」という暗黙の了解なわけである。ある種の発達障害では、こうした「言外の意味」あるいは「文脈」というものを理解できない。
 ところで、現在の内閣には、この発達障害の疑いがある方々が何名かおられるようだ。虚偽答弁だと言われれば「虚偽答弁の定義はない」。第二波ではないかと訊かれれば「第二波の定義はない」。挙げ句の果てに、「政治責任の定義はない」。
 別に、発達障害の人が政治家をやってはいけないということはない。むしろ、それこそがダイバーシティであるから、閣僚が発達障害を抱えながら立派に職務をはたしておられるのであれば、喜ぶべきであろう。それなら私も、「総理が政治責任をどう定義なさるか、それを聞いているんですよ」と教えて差し上げたい。だがもし、意味が分かっていながら分からない振りをしているのであれば、これは甚だ失礼ではないだろうか。「バカだからわかりません」というならバカでもわかるように説明すればいいが、分かるのに分からない振りをするのは、分からないことで苦しんでおられる人々への侮辱であろう。
 だから、冒頭のテレビの学生を見たとき、私は直感的に「ずるい」と思ったのである。はたしてこの学生には理解しようとする姿勢があるのか。言語ゲームをやっているのならまだしも、理解可能なのに理解できない振りをしてはぐらかしているように見えるからである。
 だいぶ前に見たテレビだから、今頃その学生も社会人になって出世しているかもしれない。屁理屈で他人を弄するような見苦しい大人になっていないことを祈る。
(二〇二一年三月)


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