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私の読書術

 読書論ならたくさんある。古くはショウペンハウエルの『読書について』(岩波文庫)だろうか。この本でいまでもよく覚えているのは、「良書は二度読め」である。本は二度続けて読め。良い本ならなおさら二度読め。これを読んだのは大学生のときだが、実践したのはだいぶ後になってからである。
 私はあまりテレビを見ないが、DVDが登場してから、アニメやドラマは何度も繰り返し見られることを想定して作るようになったという。たとえば、視聴者がリアルタイムでは見落としてしまうような「気づかれなくてもいい伏線」を張ることができる。こうした意味では、本というものはすべからく繰り返し読むべし、であろう。あなたは、著者が一度でわかるように書いていると思うだろうか?
 家内は大河ドラマをBSと地上波で1日に2回見る。たぶん、新しい発見があるのだろう。読書も同じである。二度読むと、気づかなかった発見がある。ミステリは犯人がわかってしまうからつまらないと思うかもしれないが、それこそ「気づかれない伏線」に気づくかもしれないではないか。
 しかし、忘れた頃になってから読み直してもあまり意味がない。それでは1回しか読まないのとたいして変わらない。そうだそうだ、こういう話だった、思い出した。それで終わってしまう。続けて二度読むから意味があるのである。
 もちろん、3回、4回、いやもっとたくさん読めればそれに越したことはない。だが、流石に時間がかかる。だから2回がちょうどいいのである。流行りの言葉でいうなら、コスパがいい。

 私は本を読んだら必ず書評を書く。まあ書評などと格好つけているが、要するに読書感想文である。これを書くために本を読んでいると言っても過言ではない。
 人間は、頭の中でなんとなくわかったつもりでいても、いざそれを人に伝えようとすると、じつはよくわかっていないことが多い。だから、誰かに伝えるために言語化することで、読書の解像度が上がるのである。
 別に書評でなくてもいい。小説ならあらすじでもいいし、論評なら要旨をまとめてもいい。箇条書きのメモでもよい。大事なのは読みながら書くことである。読み終わってから書くのではなく、書きながら読む。そうすると、途中で書き直さざるを得なくなる。それが思考を整理するということなのである。最近はスマホがあるから、これがだいぶ便利になった。
 読書がインプット(入力)なら、書くことはアウトプット(出力)である。学習とは、この入力と出力のループを繰り返すことなのである。文武両道。こんな効率のよい読書法があったなんて、なぜ今まで気付かなかったのだろう。
 もっとも、こう書いたからといって、誰かの参考になるとは思っていない。私はショウペンハウエルの正しさがわかるまでに20余年を要した。自分で学んだ方法だけが真の意味で役に立つ。他人の頭に考えさせているうちは、自分の頭で考えることはできない。

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