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ファンタジーに託す

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 私の書斎には一首の歌が飾ってあります。大学のときの恩師が詠まれた歌で、筆書していただいたものを額に入れて掛けています。こんな歌です。

  胡蝶にも
  佛果にいたる花の色
  隔てぬ梅に
  飛び翔りてそ

 現実には蝶々が梅の花を見ることはありません。なぜなら、梅が咲く頃には彼らはまだ蛹の中にいるからです。春から秋に咲くあらゆる花々を眺め、そのまわりを舞うことができる蝶々も、梅の花だけは見ることができない。それゆえ蝶々は梅の花にあこがれる。そんな蝶々が仏陀の慈悲にすがることによって、自身の夢=あこがれを想像力の中で実現する。そんな御伽噺のような歌です。

 いつだったか、ドイツの作家ミヒャエル・エンデが財界人の集まる会議に招かれたときのことです。200人以上もの経営者が集まって、未来について議論しました。夕方になって、エンデは『モモ』の一節を朗読します。有名な「灰色の男たち」のところです。聞き終わった企業トップたちは、難しい顔で黙っていました。どう反応すればいいのかわからなかったのでしょう。しばらく経って、朗読された箇所の文学的価値について議論が始まりました。いかにも彼らのやりそうなことです。そこでエンデは言いました。「今日一日みなさんは、未来について議論してきたわけですが、思い切って100年後の社会がどのようになってほしいか、自由に提案してみませんか」。また長い沈黙が続きました。そしてようやく誰かが言いました。「そういうおしゃべりにどんな意味があるのですか。大事なのは、少なくとも年3%以上の成長がなければ、経済はおしまいだということです」。そこで終わりました。

 戦争をなくそう。貧困のない社会を。もしかするとそれは、蝶々が梅の花を愛でるようなファンタジーかもしれません。しかしそのような想像力なしに、私たちは何かを変えることができるのでしょうか。
 もちろん、お題目としての平和主義はナンセンスです。政治的正しさを誇示するためのポーズなど、およそ人間性からはほど遠いものでしょう。それよりは「敵が攻めてきたら、俺は家族を守るために武器をとる」という方が、もっと人間らしいと言えます。けれど、その「家族を守りたい」という同じ動機から、戦争をなくしたいと願うこともできるのです。どうせ戦争なんてなくならないんだから。たしかにそうかもしれません。しかし、その前提だけで考えるのは、あの3%の成長しか頭にない経営者たちと同じことなのです。
 リアリズムがメインストリームを闊歩しています。強い者が生き残り、弱い者が滅びるのが社会のルールだと、生きるのも死ぬのもすべて自分のせいで、助け合いなど不要だと、現実だけを見るように、夢など見てはならないと、声高に叫んでいます。そんな時代なのに? いや、そんな時代だからこそ、ファンタジーが必要なのだと思います。

𝐶𝑜𝑣𝑒𝑟 𝐷𝑒𝑠𝑖𝑔𝑛 𝑏𝑦 𝑦𝑜𝑟𝑜𝑚𝑎𝑛𝑖𝑎𝑥

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