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シンギュラリティ

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 最初に断っておくと、「シンギュラリティ(singularity)」というのは、巷間に流布しているように、「人工知能が人間を超える」という意味では本来ない。1よりも小さい数どうしをいくら掛け算しても1より大きくなることはないが、1.1でも1.001でも、1より少しでも大きな数は、掛け算すると無限に大きくなっていく。このように、AIが他者の手を借りずに、自律的に自分自身よりも能力の高いAIを作り出す特異点のことを「シンギュラリティ」という。
 したがって、本来の意味でのシンギュラリティは必ずしも人間を超えるということではなく、そういうポイントを過ぎれば、やがて人間の能力をも超えるのではないか、という話である。しかし、ここではあえて、「AIは人間を超えるかどうか」という話をする。
 たとえば、一流シェフに負けないくらい上手に料理を作れるロボットが出来たとしよう。そいつが展示会場でデモンストレーションしているのを見て、「よし、こいつをウチの店にも導入しよう」となったとする。そうすると、まずは厨房を改造しなくてはならない。展示会場はいわばそのロボットのためにお膳立てされた環境であって、人間だったら料理の下手な奴でもどこへ行ったって料理は作れるが、機械はその環境を一歩でも出ればその能力を発揮できない。
 要するに、われわれが文明や進歩と称して一生懸命にやってきたのは、機械にとって都合のいい世界を作ることだったのである。それで「AIに仕事を奪われる」というのは、どこか話がおかしい。なぜなら、「人間はもう不要です。それは機械がやりますから」われわれ自身がそう言ってきたからである。したがって、AIが人間を置き換えるかどうかというのは、どちらが優れているかの問題ではなく、「人間なんてもういらない」という人間不要論ではないのか。われわれ自身がそのことに気づいていないだけである。
 今年『AI崩壊』という映画が公開されたが、見る前は私も、学習したAIが勝手に人を殺し始める話だと思っていた。でも、じつはそうではなかった。暴走するAIの裏に、生きる価値のある人間と、そうでない人間を選別するプログラムを書いた犯人がいたのである。つまり、AIが人間を殺す話ではなく、人間が人間を殺す話だった。本当に恐いのはAIではない。人間である。
(二〇二〇年十月)

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