ディヴィドソンによるパラダイム論批判

哲学者デイヴィドソンによるクーンのパラダイム論への批判を紹介します。

クーンのパラダイム論

科学史家のクーンは科学を通常科学と危機科学という二つのフェーズに分けました。通常科学では科学研究は「パラダイム」に沿って行われます。パラダイムは、ユークリッドの原論とかニュートンのプリンキピアとかディラックの場の量子論とかブルバキの数学原論とか、とにかく科学研究のお手本になるものです。必ずしもきっちりした理論体系である必要はなく、また通常科学がパラダイムになっている研究を100%正しいと考えているわけでもありません。通常科学でも科学理論は改訂されていきます。ただし、科学研究の方向性と「良い」科学の基準はパラダイムが提供します。

既存のパラダイムにもとづく研究が行き詰まると危機科学の状態に入ります。危機科学ではお手本がないので、その研究は社会学的なプロセスによって決まる、とクーンは示唆しているようです。危機の過程が収束すると新しいパラダイムが生まれ、通常科学が再開します。例えば、力学は完全な予測という目的を放棄し、確率的な予測しかできない量子力学へとパラダイムシフトしました。

クーンは、パラダイムシフトの後の科学はそれ以前の科学とは「共約不可能」であると考えました。例えばニュートン力学の「絶対空間」や「絶対時間」は相対性理論に対応物を持ちません。さらに、どちらが正しいかとか良いか、という比較も共通のパラダイムがない以上不可能である、と示唆しているようです。

ディヴィドソンによるパラダイム論批判

ディヴィドソンは「概念枠という考えそのものについて」という論文でクーンのような考えを批判しました。実際はディヴィドソンはクーンだけを批判したのではなく、一般的に人間は「概念枠」(クーンのパラダイムだけではなく、フーコーのエピステーメーとかサピア・ウォーフ仮説の言語など)を通して(しか)現実を見ることができないのだ、という考えを批判します。

ディヴィドソンは、誰かが何かを言葉で主張する時、私たちはそれをできるだけ正しくなるように解釈する、と考えます。例えば、誰かが1+2=3, 1+3=4と計算するが1+2^32=1と繰り返し計算するとき、この人は足算を理解していないというよりは、2^32を法とする剰余演算を行っているのだ、と解釈するべきだ、と考えます。もちろん、間違いを全くないように解釈しなくてはいけないのではありません。人間なのでそれなりに間違えます。ただ、間違え方は人間として理解可能なものでなければなりません。

ここからディヴィドソンはクーンの「共約不可能性」という考えを批判します。科学史家は、過去の科学ができるだけ正しくなるように、間違えがあってもそれが当時のいろいろな制約から理解可能な形で解釈しなければならない、と考えます。なので、過去の科学が現代人から見て「共約不可能」に見えるのは、単に科学史家の解釈が失敗していることの現れです。もしどのように解釈しても過去の科学が筋の通ったものに解釈できないなら、それは無意味なものと区別がつきません。

さらに、「概念枠」と通してしか人間は物事をみることができない、という考えも批判します。もしそうなら、概念枠が違えば何が正しいかも全然違うはずです。しかし、そうなると概念枠が違う人同士でお互いに言っていることを解釈することが不可能になります。なにが正しいかを共有することができないからです。そうなると相手が意味のあることを言っていると考えることすら不可能になります。過去の資料の解釈を通して、その時代の「概念枠」を明らかにしようとするクーンやミシェル・フーコーの試みは疑わしいものになります。

まとめ

人間は「概念枠」を通してしか現実を見ることができないのだ、という考えへの、ディヴィドソンの批判を紹介しました。

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