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科学に関する虚構主義と祖先以前性の問題


カンタン・メイヤスーはその著書「有限性の後で」[1]において、「相関主義」が近現代の哲学を覆っているとし、その批判として「祖先以前性の問題」(第1章)を提起した。メイヤスーは相関主義は科学を虚構主義的に解釈しているとする(前掲書, p.29)。本論では、メイヤスーの議論を、「祖先以前的言明」を虚構主義的に解釈する際の困難を指摘するものとして捉える。そしてこの困難とは、祖先以前的言明の時間的な「隔たり」(前掲書p.37)ではなく所与の「贈与」(前掲書p.40)が実現しない可能性を科学が想定していることにあると考える。

メイヤスーの考える相関主義

メイヤスーは現代哲学を広範に覆うとされる相関主義を批判し、人間その他の認識主体の存在によらず成立する事実があることを「思弁的」に論証しようとする。相関主義とは

私たちは主体との関係から分離された対象「それ自体」を把握することは決してできないと言うのみならず、主体はつねにすでに対象との関係に置かれているのであって、そうでない主体を把握することは決してできないということも主張する。

前掲書 p.16

立場であり、カントの批判哲学、超越論的現象学、生活世界論などを包含するとされる。本当にこれらの哲学上の立場がメイヤスーのいう相関主義に当てはまるのか議論があるが、本論ではその問題には関わらない。しかし「ある種の事実の成立にはかならず認識主体の存在が前提となっており、そのような事実が何らかの意味で本来的な事実である」と相関主義を定式化すれば、上記のような哲学的立場が通俗的に流布されるときに使われがちなまとめとして、また厳密には主張されてはいないかもしれないが背景にある考えとして、それほど的外れではないと考える。

祖先以前性の問題

さて、メイヤスーは相関主義を「祖先以前性」という概念を用いて批判する。ある事実が祖先以前的とは「人間という種の出現に先立つ − また、知られうる限りの地球上のあらゆる生命の形に先立つ − 」(前掲書 p.24)ことを言う。現代の科学は例えば「地球は46億年前に誕生した」などの、祖先以前的な事実に関する言明を大量にしているのだが、そのような言明を相関主義は正当に解釈することができない、という批判である。というのも、相関主義者は「主体との関係から分離された対象それ自体を把握することは決してできないと言う」(上記引用部分)からである。もしそれが正しいとすると、主体に先立つ対象は把握することができないはずであり、祖先以前的な事実を把握することもありえないはずだからである。

相関主義による科学の虚構主義的解釈

しかし、メイヤスーが指摘するようにほとんどの相関主義者は科学の言明の正当性を受け入れる。このために相関主義者が取る戦略は、科学はある種の虚構であると考えることである。つまり、相関主義者は科学の言明は文字通りその言明の通りの意味を表しているのではなく、ある虚構の中の言明であり、何かの事実を表しているわけではない、と考える。にもかかわらず、相関主義者は、例えば科学の言明は有用であるのでその使用が正当化される、と考える。

「出来事Xは人間の出現より何年も前に早く起こった」。(略)相関主義者の哲学者はーおそらく心の中で行うだろうがー簡単な遺言補足の但し書きのような、いつも同じものを、こっそりと文の最後につけ加えるだろう。すなわち、出来事Xは人間の出現より何年も前に早く起こったー人間にとっては(さらに言えば、科学者にとっては)

前掲書p.29

つまり、相関主義者は「科学というフィクションの中では『地球の誕生は46億年前であった』」と科学言明をパラフレーズすることにより、それを受け入れる。

しかし、これをメイヤスーは批判する。理由の一つは分析哲学で言われるところの態度問題([2] p.121)である。

もし祖先以前的言明の価値が、その検証が現在において普遍的に可能だということからしか引き出せないのであれば、その言明を打ち立てるために苦心している科学者にとってその言明はなんの興味もないものになってしまうだろう(中略) 科学は、様々な実験によって、実験の普遍性を打ち立てることを目指しているのではない。科学は、再現可能な実験によって、実験に対して意味を与える外的指示対象を目指しているのである。

[1]. p35

科学者はフィクションを探求しているわけではなく、事実を探求しているのであり、そうでなければ科学の意義を説明できない。

しかし本論ではこの議論ではなく、相関主義者のメイヤスーへの反論に対するメイヤスーの再反論(前掲書 p.39)を取り上げ、それをより形式的な形にまとめたい。

認識主体の存在の必然性と偶然性

まず、相関主義の主張を明確化しよう。メイヤスーはテキストにおいて明示していないが、相関主義者は主体が把握できる対象に関する言明の集まり、つまりなんらかの直接的・本来的に有意味な言明の集まりを想定していると考えられる。相関主義は、そのような本来的に有意味な言明Pについて

Pならば認識主体Iが存在してIがPを認識する(相関主義の公準

を主張すると考えられる。メイヤスーの前掲書 p.16の引用ではPの把握だけが問題にも見えるが、それでは主張が自明になってしまうので、このようにまとめる。

これに対して、相関主義者にとって、例えばアンドロメダ銀河で生じる現象のように、直接経験不可能な科学言明の多くは「直接的・本来的に有意味な言明の集合」に含まれてはおらず、ただそれらから何らかの意味で構成されたり検証されたりするだけの「概略的な所与」(前掲書 p.37)である。本論では科学的言明のある種のものは直接的・本来的に有意味な言明に翻訳されると考える。というのも、科学は直接・本来的に有意味ではないかもしれないが、最終的には我々にとってのある種「直接的に与えれた」所与についての何らかの言明を行うと考えられるからだ。相関主義者は科学の主張を受け入れるから

本来的に有意味な言明Pに翻訳されるSを科学が主張するならば、P(移行原理)

を受け入れる。

さて、祖先以前的な言明、例えば「生命はRNAの偶然的な組み合わせから発生した」を考えよう。メイヤスーによればこの言明のポイントは、この言明の持つ所与からの「隔たり」でもなければ、同時にこの事実を観測する主体が存在しなかったことでもなく、「所与それ自体が非存在から存在へと移行する時間」(前掲書 p.41)という問題を提起することである。とはいえ、このメイヤスーの言明は簡単には理解しがたい。というのは、我々はすでに所与が存在している時点に生きているからである。そして、相関主義者は、所与が存在する以前には、厳密には事実は存在しなかったと考えている。ここには矛盾はないように思える。

我々はこう考えたい。所与それ自体が非存在であった時があったすれば、そもそも所与は与えられなかった可能性がある。例えば、ビッグバン時の時空の膨張速度がわずかに違えば、認識主体はこの宇宙に存在し得えなかった、といったような。我々は、祖先以前性の問題は、それが過去に関わるからではなく、認識主体が偶然的な起源を持つこと、よってその存在は偶然的であることを主張するからだと考える。

この解釈が厳密にメイヤスーの立場であると主張することは本論では行わないが、この解釈の正当性の証左は、ある程度指摘できる。メイヤスーは「大文字の時間」(前掲書 p.107)について語る。これはあらゆる自然法則をも破壊する可能性をもつものであるが、おそらくメイヤスーはこの時間が最終的には物理的な時間と一致していると考えているように思われる。というのも、メイヤスーは自然科学の実在論的な解釈を擁護しようとしているのだから、物理学が扱う時間こそ実在する時間でなければならない。よって、「所与それ自体が非存在から存在へと移行する時間」は自然科学が扱う時間であり、所与の「贈与」(前掲書 p.40)は自然科学が扱う時間の中の出来事である。さて、ある出来事、例えば宇宙に意識的存在者が生じる、といった出来事を考えよう。もし、その出来事が完全に決定論的に生じるものでない限り、ある出来事が時間のうちに起源を持つ、ということはその出来事が起き得なかった、ということを意味する。メイヤスーがここで考えている「時間」は一義的には「大文字の時間」であるが、それは実在する時間であり、特に物理学が記述するものでなければならない。よって、自然科学が「原化石」(前掲書p.24)をもって推論する意識的存在者以前の時間は、意識的存在者が偶然的であることを帰結する。

さて、科学が認識主体の存在が偶然的であることを主張することは、どのような帰結を持つだろうか。もし認識主体の存在は直接的に把握可能な事実であると思われるので、移行原理は認識主体の存在が偶然的であることを示すように思われる。その一方、相関主義の公準はトートロジーであれ何であれ必然的な事実が本来的・直接的な言明がある限り、認識主体の存在は必然的であることを示しているように思われる。よって、相関主義の公準と移行原理は両立し得ない。

科学の様相と根源的な様相

この結論から逃れる一つの方法は、偶然性や必然性にかんする言明には移行原理は適用できない、とすることだ。科学における偶然性や必然性は、本来的な意味での偶然性や必然性とは関係ない、と考えると上記の問題は回避できる。

しかし、この解決は行き過ぎた結論を導くように思われる。例えば次のような科学的言明を考えよう。

高電圧電流が流れる電線に触れると死亡する危険性がある

この言明は可能性についての命題である。偶然性や必然性についての言明に移行原理を適用しないのだとすると、この言明から

この(今目にしている)高圧線に触れると、死の危険がある

という推論を行うことができない。それどころか、なにか本来的に有意味な必然性命題がある限り、相関主義の公準から認識主体の存在が必然的であることが導かれる。私は高圧線に触れても死なないのである。この立場は、メイヤスーの言うところの「主観的観念論者」(前掲書 p.97)である。

この立場は、メイヤスーが「思弁的観念論」(前掲書 p.47)を批判する論法を少し変えることにより批判できる。一言でまとめれば、絶対的観念論あるいは思弁的観念論は超越論的意識の「受肉」の可能性の問題を引き起こす。ここで「受肉」とは次のようなことである。相関主義によると、事物と相関的な主体によって世界は構成される。しかし、一方で主体は世界の中で身体を持つものとして現れ、主体が事物と持つ関係は身体により制約される。ここでの「身体」は完全ではないにしても、科学の対象である(物質的な)身体と一定の関係を持つ。科学的言明は、この身体による制約を何らかの帰結を持つと考えられる。しかし、もし科学的な可能性と直接的・本来的な可能性がことなっているとすると、身体に関する科学的事実が主体におけるできごとと無関係になってしまう。

例えば、次のような医学的言明を考えてみよう。

緑内障を発症すると視野が狭まる可能性が高い

しかし、可能性に関する言明に移行原理が適用できないとすると、ここから

(意識主体としての)「私」の(医学の記述対象である)身体に緑内障が発生すれば、(意識主体としての)「私」の視野が狭まる可能性がある

を導くことができない。これは行き過ぎた結論に思われる。

弱い相関性の公準

祖先以前的言明が提起する問題を回避するため、相関性の公準を弱めることも考えられる。ここではChristian Beyerが行っている議論[3]を検討したい。Beyerはフッサールの立場を次のようにまとめる。

the existence of a contingent object A requires ``the necessary
co-existence of a subject either acquiring knowledge'' regarding A ``or
having the ability to do so'' (Hua XXXVI, pp.~139f). This is nothing but
``{[}t{]}he thesis of transcendental idealism {[}\ldots{]}: A nature
without co-existing subjects of possible experience regarding it is
unthinkable; possible subjects of experience are not enough'' (Hua
XXXVI, p.~156).

前掲書

これに対して、Beyerは「弱い相関性の原理」を考察する。

merely require what might be called real higher-order
possibilities---possibilities for acquiring epistemic dispositions in
counterfactual (or actual) cases where epistemic subjects would be
co-existing---that may remain unactualized but could be actualized by
someone properly taking into account a multitude of individual epistemic
perspectives, by means of intersubjective experience.

前掲書

弱い相関性の原理によれば、事実Pが成立するためにはそれを実際に認識する認識主体が存在することは必要なく、適切な間主観性の経験によってその事実を認識する認識主体が存在することを想定することが可能であれば良い。

しかし、この原理も祖先以前性の問題を持つことを指摘したい。1つ目の問題は、例えば1ミリ秒しか存在しない宇宙、あるいは物質がそもそも存在しない宇宙における認識主体を想定することは、通常の間主観性の経験によっては全く不可能で思われる。にもかかわらず、これらは科学的に想定可能な状況である。ここで私はこれらの状況を予言する物理理論の正当性に依存しているわけではない。このような物理理論を認識主体の想定不可能性から排除することは科学的に適切ではないように思われるということを論拠としている。

そして、これと関係するが、我々の日常世界とはかけ離れた世界において認識主体が存在することが可能であれば、そのような認識主体は、少なくとも我々が想定するような身体に「受肉」しているわけではない。このようなまったくことなった様々な身体に「受肉」した認識主体が想定可能であるということは、認識主体とは身体の制約を受けない「Pure Ego」である。このことは、前節で提起した「受肉」の問題をやはり引き起こすように思われる。

まとめ

本論では、メイヤスーが提起する「祖先以前性の問題」についてのある種の解釈を提起した。この解釈では、メイヤスーの議論は認識主体の存在を必然的に含意する「相関主義の公準」と、認識主体の存在の偶然性を含意する「移行原理」からなる。この2つが両立しないことから、科学に対して虚構主義的な解釈を行う相関主義を批判した。さらにこの問題を回避するため様相命題が移行原理の対象にならない、という仮定を検討し、この問題は意識の受肉の条件を説明できないことを示した。また、相関性の公準を弱める試みについても、同様の問題点があることを示した。

参考文献

[1] 有限性のあとで, カンタン・メイヤスー、人文書院, 2016
[2] 現代存在論講義 II, 倉田剛, 新曜社, 2017
[3] Edmund Husserl in The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Christian Beyer, Metaphysics Research Lab, Stanford University, 2018


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