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媒体 -ばいたい-

「多くの人間が熱中しなければできないメディアが、本だ。」

近藤康太郎 著 「三行で撃つ <善く、生きる>ための文章塾」
の中の一文である。(P.180)

「この時代に信用できるのは、熱だけだ。何人の人間が真剣になって、本気で作っているか。熱量の総和が圧倒的に多く、かつ、安価なメディア。それが紙の本である。このメディアを使い倒さないことは、あり得ない。」P.180

「電子書籍でいいではないかという人は、本を血液として使っていない人だ。電子書籍がだめだと言うのではない。電子書籍と紙の書籍は、別のものだと言っている。代替できるものではない。用途に応じて、両方使うのが正しい。」P.262

抜粋であるためややニュアンスが異なって受け取られるかもしれないが、ご容赦いただきたい。


言葉を扱おうとしたとき、その手段を考える。

紙のもの、web上のもの、小説、エッセイ、詩、短歌
ことばの世界は長きにわたり、その汎用性と専門性が活用されてきた。
そのうえで今自分が言葉を綴る意味を考える。

なぜ、一歩踏み込もうとしているのか。

ほめられることがある。遊びたいことがある。
向上心がある。探求心がある。
自分の可能性をみたい。湧き上がるものの理由を知りたい。
自己探求、自己表現。
漢字の成り立ちへの興味、自らの名前の由来。
名付けられたことによる影響、意味。
ことばと意識。今と未来への作用。
承認欲求か、内なる発揮か。
発信は仲間探しであり、共鳴の拡大である。
自分の感性を発し、楽に生きたいのか。

自分の目的を内省しつつ、その手段を考える。

このnoteでできることもたくさんあるのだろう。
簡易性、拡散性、利便性。
つながり、収益。
練習もできるし、本番でもある。

そう思いつつも、
冒頭の文章を読んだとき、この紙の本の存在感というものを感じている。
書き込み、折り込み、置いてあると目に入り、
触感があり、貸し借りができ、あることで自分の個性を発揮できる。

手触りのあるものができるって、すごくうれしいんだよね。
一つの自分の分身を、持ち歩くことができる。
披露でき、対話ができる。
それってすごく自分の自信になっていくんだ。
ときにはへこむこともあるけれど、それはステップに過ぎない。

わたしはことばでなにをしたいのか。
自分が感じている世界を表現したいのか。発したいのか。
(いま自分が感じているものが、他の人も「同様に感じている」という保証は、あるのだろうか。この脳内感覚は、どこまでが事実なのか)
この自分の感覚を発することに、どんな意味があるのだろう。
振動を発し、どうするんだろう。
どこの誰に、何に向けて、発するのかを選ぶ。
それは単に、自分とそのものとの間のやりとりに過ぎないのかもしれない。
それは、自分の振動を大きくするため。そのものの振動を大きくするため。
お互いがお互いを高め合うため。
自分(だけが感じているかもしれない)の感性と、感じているものへ向けた発信。呼応。やりとり。オーダー。

なんだか孤独であり、ゲーム的であり、世界ってなんなんだろうかという、また別の思いもわいてくるが、
少なくとも感じているものが、自分とともに、良く良く重ねていけたらいいなと思う。

感じたものを発する手段。
こんなオーダーの繋がる先を、時間を、確かさをやりとりしていけるものは、
紙か、電子か。


2022.2.13 Sun / 21:42

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