岐路
尾道に来て、次の1月でちょうど8年になる。今の仕事に就いたのはそこ引っ越し直後で、翌2月のことだった。
コワーキングスペースでの仕事も、尾道という新しい環境での暮らしも初めてのことだった。
尾道に来た当時は29才で、私には危機感があった。多分に失礼になることを恐れずに言うと、社会人経験もほぼない状態で地方に行き、ここで何もしなければ、友人などと比べたときに本当にどうしようもない人間になっているような気がして怖かった。
コワーキングスペースでの仕事が始まり、最初の1年はほぼ人がいない空間を眺めていた。社内のメンバーが会議するときだけ会議室が動き、そのために清掃をして、コーヒーを社内のメンバーのために運んでいた。
2016年の当時、コワーキングスペースというものは言葉では知っていたし、スタバのようなカフェで働くノマドのようなスタイルに憧れもあった。こういう働き方っていいなとそう思っていたのは、これまでの管理された空間のなかで仕事をすることに対して苦手さと違和感を感じていたからだと思う。(単に自分が集団生活が苦手というのもあるのかもしれない。)
そんなこれからの働き方には興味があった。加えて、自分が尾道でやってみたかったことは、「目の前の誰かの課題に対して一緒に考え、ゴールまで一緒に向かうこと」。その方法論すらゼロから考えること=本質的なクリエイティブができる仕事をやってみたかった。ここなら、できるかも、と直感的に思ったのがONOMICHI SHAREでの仕事だった。
8年が経とうとしている。
ONOMICHI SHAREでやれることはやり続けたと思う。そしてそれらをもっと進めるためにはきっと、チームで運営する世界になっていくと思う。そこまでの可能性は何かしら示せたような気がする。コワーキングを軸にして何が生まれていくか、尾道という場所の力すらともコワーキングしたときに見える可能性を私は見ることができたように思う。ないところから、探っているような作業は哲学の答えを求めるような作業で本当に楽しかった。
2023年12月いっぱいで、今の会社を離れることを決めた。会社がこの事業を所有している以上、会社の意向があることが自分にとっての限界だったと思う。会社の進め方を否定はしていないし代表の考えは会社を想うと当然わかる。むしろ、覚悟を持たれて一番会社に取り組まれているのは代表だろうと今も思う(組織再編して以降は、代表から話を聞かせてもらうことは社内でも比較的多かったと思う。それはありがたい時間だった。)。
だから、今後自分が自分なりに見てみたい世界を見るためには、自分の責務でやらないとだめだなと思えた。そういうところまで自立させてもらえたこの8年間、本当に感謝しています。
尾道のなかでやってみたいこと、自分が見えていることについては継続したいと思う。あったらいいのに=可能性としたら、それを実現するところまでもっていくのはそれに気づいた人の業と思っていいと思えたから。それは尾道市若者チャレンジ講座のなかで、その当時市の担当だった倉田さんから教えてもらったことでもあると思う。自分ができるところから、できる範囲で始めてみること。
なにかのご縁で尾道で役割をいただいて、コワーキングという世界も知って、そして京都というルーツがある自分だから。この3つにはこれからも関わりたいし、その先をもっと見てみたいと思っている。そしてそれらをつなぐものがコミュニケーションであるならば人生のテーマとしてもいいなと思うし、母校である大阪外国語大学への恩返しにもなるだろうと思える。(イベントはそのための自分にとっての装置や手段なのだろうな。)
大きくは次の時代に対して、この時代を生きる自分が、できることで貢献したいし、よりいい状態で受け渡したいということだと思う。それで全うできるなら本望だという覚悟はある。
年明け以降の進め方はまだ決まっていないけれど、もう少し見てみたい。
コワーキングという世界でももっとレベルアップしてみたいし可能性も見てみたい。
コミュニティを越えて、つながって価値が生まれるようなことをもっと起こしていきたいし、そのやり方をシェアしていきたい。
自分が描く事業やサービスが誰かにとってプラスになるかどうかも見てみたい(プラスになるなら、それで誰かを手助けしたい)。
尾道に恩返し=自分の役割を果たし、またそれがその時が来たら、京都の生まれた町にお返ししていきたい。(この覚悟は尾道に来る前から決めていたこと)
今後はそういうことができればいいなと思っています。次の時代にバトンを繋いでいくなかで自分の経験や存在として役に立つことがなにかあればいいな。