宗教について

角野さんのnoteを読んで、思い出したことを書き留めておく。https://note.com/kadono/n/ne0bc8d07615c?fbclid=IwAR00Jd-qFmo2-BkN-043WcOZstVhgZLSSYZD3-wpm7qO_Tyjioi6Qw-yUqw

美術を学んでいた時に、どーしても避けて通れないのが宗教画。
そんなわけで宗教と幸福について考えていた時期があった。
先に行っておくと、宗教が好きである。

どれくらい好きかというと、街中での宗教勧誘についていき
その宗教の話を大筋聞いたところで、信じているものの弱さを突っ込み続けると
最後には必ず、脅しにかかり、
「あなたはろくな死に方をしない」
「あなたの家族に不幸が訪れる」とか言われる。
もしくは
「私ではあなたに私たちの信じているものの素晴らしさがわかっていただけないので、ぜひ集会に来て他の信者にあってください」
と言われるほど、怪しい宗教の人の話を聞くのが好きだった時期があるくらい好きなのだ。

だけど、どの宗教なのですか?と聞かれると
どの宗教にも属していないしどの神も信じていない。
母はクリスチャンだし、父は教会に観光以外で入ったことはないし
多分、葬式は仏式だろう。

なら、どうして宗教が好きなのか?だが仕組みが好きなのだ。
これは人が生み出した最大のコミュニティ運営方法だと思っているから。
みんな知らないビートたけしの「教祖誕生」って映画が
それを揶揄していて面白い。よくできた仕組みだ。
だから手を変え品を変え、世界各地でどの時代にも宗教がある。

仕組みでいうと、宗教には必ず場所が必要となる。
それは教会の形をしていることが多い。
そしてどの宗教の教会も、音と色と匂いで人を変な気持ちにさせようとする。
「変な」と書いたのは「荘厳」とかそういう類の圧倒感というか、
簡単にいうと日常から乖離した空間を作る。
妙に反響がよく、煙で変な匂いがあり、そして暗闇に刺す光。
だいたいどれも同じパターン。神父も坊主も大概声がいい。

世界を滅ぼそうとする人たちが出てくる映画のクライマックスシーンも
同じように声が響く大空間に悪の親玉がいて声が響き渡る。

人が宗教を必要とするのもわかる。
何かにすがりたく、説明のつかない不条理を
どこか別の世界を作ることで、説明をつけ不安を取り除こうとする。

宗教には明らかに効用がある。

しかし、だ。

ここから先が、どうしても私が宗教に対して解せないことがある。
不安を取り除こうとして入る宗教に対して、自信がないのだ。
それが作り出す世界が完璧ではなく不安なのだ。
その原因を取り除くために取る方法は大きく2つ。

1 絶対的な条理である科学による。
2 みんなで渡れば怖くない。


1 科学は正しい。という幻想から科学的根拠を元に宗教を作ろうとする。

まあ、宗教名に科学なんてものつけること自体がどうかと。
そもそもいかがわしい健康食品なんてみんなそうだ。
科学が正しいと信じ切ってしまっている時点で、その世界に私は入りたくない。

2 全員が信じているから大丈夫でしょう!

ここに宗教の落とし穴というか、嫌いなところがある。つまり信じていない人を巻き込みたがるのだ。私も信じてるけど、あなたどう?的な勧誘が始まる。

自分が信じているものへの不安を他人と共有することで取り除こうとする。多数決でなんでも決めたがる人に有り勝ちな。

それでも私はやっぱり宗教は面白いと思う。
そんななかでこんな宗教があればいいのにと思うのが

「鰯の頭も信心から」
意味からいうと、鰯という最も価値の低い魚、その中でもさらに苦くて食べにくい頭の部分、それをいいものとして信じている。どーでもいいことに没頭しているみたいな揶揄される言い方で使われる言葉だが、そもそもこれは節分に、玄関先に匂いの強い鰯の頭を飾って魔除けにしたことに由来するらしいが、この光景がなんだか可愛らしく思えたのだ。

身の部分を食べて、最後に残った頭の部分だけ、玄関先に置いて手を合わせ拝んでいるおばあちゃんのシーンが思い浮かんだ。

おばあちゃんは、効き目を信じ一心にお願いしているわけでもなく、だから誰かを誘って一緒に祈るのでもなく。日々、食べるために命をいただいていること、幸せであることに感謝している、そんなシーンに思えた。「この世界の片隅に」みたいに。

同じ意味の言葉に「竹箒も五百羅漢」ってのがある。がこちらは字面も思い浮かぶシーンもなんだか違う。竹箒でレレレのおじさん、出てきてしまうし五百羅漢ってどうみても怖そうな顔つきが500体あるし。

ってなわけで、大きなうねりの中にいるこんな時には、身の回りの小さな幸せに感謝しながら、自分の好きなことに向き合って過ごすのがいいね。って話でした。



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