着地を計算していない無責任なワークショップ

「言葉と遊ぼう!」というワークショップをコルクラボのメンバーたちと行った。
これまでに3回やったけど、今回は最後まで絞らず、3つくらいの企画を考えていった。どれにしようか?は参加者の顔を見て、彼らの意見を聞いてから、決めようと思って行った。3つの企画は

1 自分で0 からあることについて書いてみる

2 みんなでいろんな好きな文章を分析してみる

3 みんなで一つの文章を書き直してみる

今回は前回に比べ人数も少なく10名をすこし欠けるくらいだったので、
これはみんなで書いてみよう!ということにした。

いい加減な課題の先には…

課題は、
「今からここを出て10分くらい、外を歩いてきて、そこで見たもの、聞いたもの、感じたこと、考えたことをとにかく長く文章にしてみる」
書いていくその先に目的はなくていい。とにかく無駄だと思う文を書く。
描写してみる。全てを吐き出してみる。
 事前に自分でどれくらい無駄に長い文章が書けるか?
朝起きて顔を洗うまでの5分を書いてみた。
電車の中で思い出しながら書いたのだが10分くらいで多分2000字くらい。
という検証は一応してみた。
で、これで何を学んでもらうかなんてほとんど考えていなかった。
みんなが何を書いてくるかを比較しようとは思っていたが、
ある意味出たとこ勝負。

今の時代の反対をやってみる。

いまの時代、適切な言葉で、なるべく簡潔に、分かりやすく、論理立てて、文章を書くことが求められている。企画書がそうだ。ブログもそんなことになってきている。真っ当な主張を他人に理解してもらうために、みたいな。ビジネス本とかHOW TO本、指南書、ウェブのコラム、雑誌の批評などすべてがそんな文章ばかり。そもそもコピーライターなんてことをしていると、1行に押し込まないといけない。そういう一切合財が全部「時代の流れ」みたいに「ある方向」にしか行かない感じが天邪鬼な私にとっては気持ち悪い。そこで、どうでもいい文章を長く長く書いてみる意味を見つけてみようと思った。

やってみたら意外や意外

みんながバラバラと部屋から出ていく。制限時間は15分。そして15分後に帰ってきて、みんな携帯に向かって掲示板に投稿を始める。徐々に投稿が上がってくる。まず、意外だったのが全員が何の苦も無く、言葉に詰まることもなく、書いていたこと。これでいいのかな?とか思いながらだったけど。良いも悪いもない。とにかく長く書けばいいだけだよ!と促しながら。ある人は声を録音してきてそれを書き起こしている。そうして15分ほど経ったら全員の渋谷の夜の街の描写が出そろった。みんな同じ時間に同じ町をウロウロしていたはずなのに、見事なまでにバラバラな文章が並んだ。そのバラバラというのは、描くもの、だけでなく 描き方 もバラバラだった。

色んな描き方を知るきっかけを作る

その個性が面白かった。簡単に書きだすと、
●自分の中の思いが「ありき」の人、自分は今これがしたくて、から書き始めている。
●とにかく色、形の描写から入る人。
●自分が他人からどう見られているのか?が常に文章の中に入ってくる人。
●妙に固有名詞が多い人。レクサスだのハイエースだ、車の名前などなど
●ひらがな、カタカナ、漢字の配分が均等な人。
●横文字がそのまま入る人
●他の人のストーリーばかりを思い描写する人
●擬音、擬態などのオノマトペが入る人
●一人称で何だかハードボイルドな語り口調になる人
●キャラクター観察したうえで、そのキャラ説明をしている人。
だれにもそれを書いてねとは言っていない。とにかく無駄に長いものを書く。その体験は観察することを思い出させる。普段頭の中で文章の構成を考え、という抽象度の高いことをやっているのが、目の前にあることを描写するという考える前の作業に近い形で文章を書いてもらった。
それほど考えていないで描いたはずの文章に、個性が出る。
個性なんて出そうと思ってもなかなか出ないのに、必死にメモを取るように書いたら、個性が出た。その個性は学ぶことができる。
学ぶの語源はまねぶ。そう。みんなの文章の特徴を真似すれば、
その書き方ができるようになる。

俺もそうやってみよう!

自分の文章にカタカナを入れて見たり、自分のを客観的に表現した文章を挟んでみたり、結構たやすくできるいろんなやり方が出そろった。こんなに出そろうと思わなかった。それでもう一度みんなのやり方を加えたら文章の量は倍以上になるだろう。そうやって他人のやり方をトライすることで見えてくる世界がある。それは模倣でもパクリでもない、その方法を自分で解釈して取り込んだ瞬間からはそれは自分のやり方だ。そうしていろんな手法を学ぶ。

推敲とは?

そうして長く書いた文章、そこに意味を持たせるには、どんな描き方がいいのか?が次に考えることだ。長く長く書いたのだから、今度は削ればいい。自分が表現したいことにマッチする表現だけを残せばいい。さらに並べ替えればいい。日本語のすごい所は、どんな語順でも文章がつくれることだ。そうなると言いたいことから考えて削ることと語順や文章の順番をどうするか?を考えられるようになる。それが推敲だとおもう。編集という言い方もあるか?

読み手の頭の中を考える。

漫画のとびらの左ページには、いつも風景がある。と教わったことがある。何かを説明するときに、それは、どんな場所でそこにはどういう人がいて
いま何をしているんですよ。のような順で説明しないと、人は文章を読み進める際に、頭の中に像を結ぶことができない。全体から部分へ、の方向に持っていかないと、想像ができない。今回やったようなワークショップの中では、描写は静止画の積み重ねの様に断片で説明もできるがビデオカメラの様に、最初に全景を見せておいて徐々に対象物による、とか、空からだんだんカメラが降りてきて、足元に目線が降りるなんてこともできる。これらは読み手の中にどのように世界を想像してもらうか?の順序決めである。そうして文章は読みやすく描写を理解しやすく、そこで感情を共有してもらいやすくなる。 文章が書けるようになる本 らしきものにそんなことは多分描いていない。それは今みんなが描きたがっている文章というのは、どーも主義主張がある文章を書く という事に成り代わってしまっている。

でも

でも文章はそれだけではない。小説の中でカフェラテを飲んでいるだけの描写の中に心の移り変わりを感じたり、ぼーっと眺めている風景の先に、心の葛藤を感じたりする。それが描写だ。そんな話ができるとは課題を出してみんなに外に行ってもらった時に考えていなかった。

着地をしっかり考えていなかったからの結末

今回の企画、どんな結果になるか?を全く考えていなかったが、私が日頃感じていることや気を付けていること、持っている手法などがどんどん出てきた。そしてそれを自分の中で言語化できた。それは企画がいい加減だったからだとも思っている。むかし、今はテレビでコメンテーターなどで大活躍中の人と一緒に話している時に、彼女の企画が酷く中途半端なときがあり、「どーして?」ってきいたら、この企画がどう転がるか?に興味があるからと言われたことがある。わたしは最初に心をこっちの方に動かすぞ!だけ決めたら、そこから先は、どこまで企画が膨らむか?を観察して自分の予想の範疇を越えていく時が楽しいから、と答えが返ってきた。この話を聞いた時には、あまりしっくりこなかったが、最近それがしっくりくる。最後の部分を相手にゆだねて一緒に作り上げる余白を残す。だから、私はみんなの文章を読み始めた時が、一番楽しかった。最後まできっちり練られた企画もそれはそれで尊い。でも自分のいい加減さ性分からしても、余白を残してみんなになげてしまうとこんなに楽しいことになるのだと、今回改めて感じた。

調子に乗って次回は、何にも企画しなかったらどうなるのか?
まとまらずに、ばらばらになるのか? 

いや、はやり転がり出すところまでは企画しよう!ってことで次回の企画が決まった。いつやろう?

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