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賢者ちゃんマジ早く家帰りたい

 市営団地のF棟は、見るたびに汚れが取れて、ピカピカに近づいているような気がする。

 一○一号室の賢者ちゃんはいつもと同じ、固まったような笑顔でぼくを迎え入れてくれた。彼女の家にはいつも家族がいないし、ついでに家具もほとんどない。空っぽのリビングでぼくはナップサックからゲーム機を取り出し、彼女にコントローラを貸してあげる。地べたに座って昨日の続きを黙々とプレイする。夏休みのおかげで全身の痣は、少しだけ薄くなったようで、滑らかな女の子っぽさを取り戻し始めているようだった。でもところどころに一生消えないんだろうな、と思わせる深い傷痕がある。

「昔だったらもっとヤバかったかも」夏休みに入る前、つまり賢者ちゃんがとことん傷まみれだったときに彼女はぼくに、不気味なほど優しげにそう言っていた。「ほら、今はネットイジメがメインだけど、昔は暴力しかなかったんだからさ」

 賢者ちゃんがぼくの学校に転校してきたのは今年の四月、四年生になった直後だった。

「今日から新しくお友達になる似知恵賢者さんです」

 そう先生が紹介するのを遮るようにして賢者ちゃんは口を開いた。

「今イジメられてる人とか、もう大丈夫です。わたし、来たからイジメ、なくなります。もう誰もイジメられません。わたし以外、誰も」

 賢者ちゃんの予言が的中したのか、それともただ単に転校初日の言動がウザすぎたからかわからないけれど、ともかく賢者ちゃんは二日目からひどいイジメを受けるようになった。それまで学校で起きていたイジメと言えば陰口とかが大半だったけど、賢者ちゃんだけは直接的な暴力に襲われることも珍しくなかった。同級生の女子が放ったパンチが賢者ちゃんのまぶたのあたりに直撃したときは思わず目を背けてしまった。けれど賢者ちゃんは怒りも泣きもせず、それどころか余裕たっぷりの笑みを見せつけるばかりで、それが更にイジメるヤツらの神経を逆撫でするみたいだった。

 ぼくはそんな賢者ちゃんに興味を持った。下級生の頃、ぼくはたびたびイジメ……と言っても軽く小突かれるぐらいのことだったけど……の標的になっていたのに、彼女が転校してきたことで誰もがぼくを忘れてしまったかのように狙われなくなったからだった。同じようにイジメられていたヤツらは大抵、賢者ちゃんをイジメる側にまわった(アイツらは本当に、本当に楽しそうだ)。彼女を気にしているのは、ぼくの周りではぼくしかいない。そういう意味だと、賢者ちゃんの予言を一番信じているのはぼくなのかもしれなかった。

 休み時間のたび、真後ろの席に座っている彼女に話しかけるぼくを、からかう男子も少なくなかった(本当ならぼくもイジメに巻き込まれるはずだけど、からかわれるだけで済んでいた)けれど、実際、彼女を好きになったわけではないと思う。

 しばしば賢者ちゃんと遊ぶようになって彼女の家に上がる機会も増えたのだけど、彼女の秘密みたいなものはまるで見えてこなかった。それっぽい質問をしてみてもはぐらかされるか、難しい言葉で返されるばかりだった。

 一学期が終わる頃にはもう、ぼくは賢者ちゃんの新しい部分を見るための手段を失っていた。彼女の家に行っても黙ってゲームをする時間の方が長くなった……今日みたいに。

「ねえ、知ってた」正確にキャラを操作しながら賢者ちゃんが呟いた。「わたしがなくしたイジメは学校のだけじゃないんだよ。有名人への誹謗中傷だってなくしたんだから」

 二時間ぐらいかけて、昨日倒せなかったボスをやっつけたところでぼくがコントローラを手放すと、賢者ちゃんもそれに従った。ちらっと彼女を盗み見る。身体のあちこちに残っているみみず腫れや傷口。終業式のときより増えている気がする。賢者ちゃんは学校以外の場所でも暴力を受けているのだろうか。賢者ちゃんのおかげでイジメられる人はいなくなったのに、どうしてか、彼女が来たことで学校は平和で無くなってしまったと思うのは、悪いことだろうか。

 ぼくは黙ってゲーム機をナップサックに放り込み、立ち上がった。玄関まで歩くと賢者ちゃんはどこかを庇うような歩き方でついてきて、ぼくを見送ってくれた。ぼくはそのまま一○一号室を出たのだけれどすぐ忘れ物に気付いて引き返した。賢者ちゃんに貸したコントローラだ。ぼくは慌てた勢いでチャイムも鳴らさず扉を開けた。賢者ちゃんは見送ったときと同じ立ち姿でいて、笑顔のまま、なのにすごい量の涙を溢れさせていた。

「どうしたの似知恵さん」「帰りたい」「どこに」「家」「いえ?」「うん、家」「ここが似知恵さんの家じゃないの」「そうだよ、うん、変なこと言ってる」「変だよ」「ごめん、でもマジで帰りたいかも」「いなくなるってこと?」「でもこれで、みんな助かってるから……」

 そうやって笑いながら泣き続ける賢者ちゃんをどうしていいかわからず、ぼくはそばを横切って床に落ちていたコントローラを掴んで玄関に引き返した。そしてそのまま賢者ちゃんを一度も見ることができないまま、靴のかかとを踏んで部屋を出た。

 ぼくは賢者ちゃんと遊ぶのをやめた。たまった宿題を片付けないといけない、なんて言い訳を心の中でしていたけど、本当はただ怖くなってしまっただけだ。

 そのまま夏休みは終わり、新しい学期になった。少し怯えながら登校し、靴箱に手を入れると妙な感触があって引っ込めた。よく見るとセミか何かの死骸が腐って溶けかかっている。三年生のとき以来、久々に受けた陰湿なイジメ。けれどぼくは不快より先に不安を感じた。

 階段を駆け上がって教室へ向かうとぼくの真後ろにあった席には賢者ちゃんではない、別の女子が座っていて、ぼくを見下すような感じで睨みつけていた。

「賢者ちゃんは」「は?」「似知恵さん。まだ席替えとかしてなかったよね」「誰? ニヂエ?」

 彼女はより一層不審そうに首を傾げ、眉間がますます険しくなる。似知恵賢者の名前を忘れているはずなんてあるはずがない。なにしろ、その珍しい名前も彼女がイジメられる大きな要因の一つだったのだから。

 混乱してるところに持ち上がりの先生が女子を連れて入ってきた。賢者ちゃんではない誰かは少し口角を上げて教壇のそばで立ち止まった。先生が黒板に彼女の名前を書く。

 似知恵賢者。

「今日から新しくお友達になる似知恵賢者さんです」

「今イジメられてる人とか、もう大丈夫です。わたし、来たからイジメ、なくなります」

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