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掌編『酩酊のモグラ』

 代わり映えのしないクソみたいな一日にアルコールを浴びせた帰りの夜道。だるっだるなのはシャツの首元だけじゃない、頭ン中も、もうすっかり出来上がって現実の認識を拒否していた。そんな帰路だ。住宅街の薄暗い路地を曲がったところ、薄ぼんやりと光る街灯の下で、一匹のモグラが座り込んでタバコをふかしていた。

「よう」俺の立ち姿に気付くと、チョイと片手を上げて見せる。まるで職場にいる中年のハゲた上司みたいな振る舞いだ。手元の煙草はもうすっかり短くなっていて、今にも爪を燃やしそうでヒヤヒヤさせる。

「それ」何から手を掛ければいいのかもわからず、俺はとりあえずモグラの手を指差した。「自分で買ったのか」

「違ぇよ……シケモクさぁ……」

 俺の頓珍漢な問いにせせら笑い、モグラは思いっきり煙草を飲む。そして、いよいよ燃え尽きそうなそれを、ピンと指で弾いた。

「さっき通りがかったオッサンが落としていったんだよ……いや、正確には捨てていったんだな」

「そりゃあ……悪いことをしたな」別に人類の代表に立つ謂われもないが相手がモグラとなれば頭も下げやすい。「すまねえこったよ……人間がよ」

「ああ、人間はクソだ」咳き込むようなモグラの笑い。いや、モグラの感情なんてどう判別したらいいか分からないが、何となく伝わってくるものがある。

 俺は無意味にモグラの隣へ腰を下ろした。そして背をフェンスに預ける。こんな場所で視線を低くする機会もそうそうあったもんじゃない。何となく、ガキの頃に自転車に乗る練習をしていたのを思い出す。

「ここも、工事中か」モグラに最適な世間話を探していたところ、先に声をかけられる。「また、ドンガラガッチャやるんだろうな」

「旧い家が潰れて新しい家が建つ……この辺りは、再開発の真っ最中だからな」

「いつの間にやら何処もかしこもアスファルトで舗装しやがって。断りの一つも入れて欲しいもんだ、ちょいと頭を出そうとしたらすぐにぶつけちまう」

「昔はここいらにも、田んぼがあったんだ」俺は胸元から煙草を取り出して、一本付けた。「それが、あっという間にこんな具合だ。ちょっと遠くを見渡すこともできやしねえ」

「そうか? 俺は目ェ悪いからよ、そのせいだとばかり思ってたよ」

「ああ、空気すら淀んでるよ。……吸うか?」

 俺は、何故か首を上げて宙空を眺めているモグラの眼前に、煙草のパッケージを持って行く。何となく気もそぞろだったモグラは、ヒョイとこちらを向き、コクリと素早く頷いて見せた。

 新しい一本に火を付けてやり、手渡そうとしたところで躊躇する。コイツはちと、モグラが吸うには長すぎるよな。手で持つだけでも苦労しちまいそうだ。しばし考えた俺は、新しい方を口にくわえ、モグラには吸いさしを渡す。「なんでだよ」と不満げなモグラのぼやき。「……モグラがこんな時間に何やってんだよ」ちょっと空気が緩んだところで、俺は核心に踏み込む質問を繰り出してみる。「ミミズでも探してるのか?」

「メシはさっきたらふく食ったんだよ……ンまあ、食後の一服ってヤツさ……」煮え切らない返事の語尾を、モグラは煙で誤魔化す。「しかしよかったよ、工事が始まる前に出てこれて」

「出てきてって……どうせまた潜るんだろ。モグラなんだから」

「いや」モグラは真っ直ぐ前を見たまま首を傾げた。「俺は戻らねえ」

 その口調からも、随分と熱い決意が伝わってくるのだが、生憎動機がさっぱり分からない。俺は黙り込んで、街灯に照らされた煙が羽虫みたいに舞っていくのを眺め続けた。

「……じいちゃんに聞いたんだよ」数秒の後、モグラはぼそぼそと、どこか恥ずかしげな話し始める。「じいちゃんはじいちゃんのじいちゃんに聞いたらしい。まあとにかく……俺の先祖が夜中に地上に出てみたら、そいつはもう見事な輝きに充ち満ちていたんだってよ。代々目の悪い俺らにも、眩しくてたまらなかったらしい。そいで、その輝きってのは、なんつうか、スゲえらしいんだ。俺はそれを見ようと思って出てきた」

 無闇にテンションが上がったらしく、激しく身振りをしたところで、モグラの手から吸いかけの煙草が飛び出した。モグラは不意に動きを止めて、ゆっくり上空を仰いだ。

「……まさか、その光って、これのことじゃあねえよなあ」

 使い古された街灯。その輝きは、見詰めていれば確かに眩しかろう。しかし、モグラがちっとも感傷的になっていないのは明らかだ。つられて俺も見上げてみる。虫のたかっている光を凝視すると、何だか吐き気まで湧いてきた。

「……これじゃあ、ないだろうな。そりゃあ星空だろう」

「星空?」

 反復することしかできないモグラに、俺としてもどうやって説明してやれば良いか分からない。何しろ、俺だって図鑑に載ってるような星空を、まともに体験したことは無いのだから。

「……さっきも言っただろ。車だの何だので空気がすっかり汚れてるんだ。オマケに、夜でも地上が明るくなったもんだから、一面の星空なんて見えやしない。この地面にいる限り、爺さんの爺さんの……御先祖が見た景色ってのは、多分もう無くなっちまったんだろうな」

「そうか」モグラは感情を失ったように応えた。俺の言葉を全て理解出来たのだろうか? いずれ、一面の星空など無いということだけでも、理解してくれたのだろうか。

「……すまねェな、人間ってヤツはどうしても……クソなんだよ」泣き上戸のつもりもないが、何だか目頭が熱くなってくる。

「いいや、謝られるこたァないさ。どいつもこいつも、必死に生きようとしたら、どこかに無理が出てくるもんだ」モグラは呟き、今更自分の手から煙草がなくなったことに気付いてちょっと舌を出す。「俺が星空を見れないのも、しょうがないことなんだろうさ」

「やけに大人びたモグラだな」俺は、無駄に柔和な笑みを向ける。「どこで学んできたんだ? そんなこと」

「俺は、必要なことは全部地面の下で学んできたよ。アンタらが知らないだけさ。この土の中に、どれだけの知識や、言葉や、景色が混ざっているかって事を……」

 よし、と声を出してモグラは腰を上げる。その目はまだ、街灯か、或いはその向こう側を見詰め続けていた。

「帰るのか」

 吸いきった煙草を携帯灰皿に押し込ながら訊ねてみると、モグラはあからさまに怪訝そうな顔でこちらを伺った。

「アンタ、俺の話を聞いてなかったのか」

「は?」

「俺は見に行くんだよ。先祖が見た星空ってヤツをよ。アンタの話だと、地上から離れればいいんだろう?」

 どういう意味だ、と問いかけようとした瞬間に唖然とする。モグラが、ちょいと空中をかいたからだ。

「いけるのか?」

「わからねえ」俺の怖々とした問いに、モグラも怖々と返す。「何せ初めてだ。初めてのことだからな。でも俺は、俺なら、いけると思うぜ」

 ひょい、ともうひとかき。「いけそうだ」と誰へともないモグラの呟き。そのまま足をばたつかせ、少しずつ空をのぼっていく。酩酊した俺の目の前で、モグラはあっという間に空を泳いでゆく。そして、ぼやけた景色の向こう側へと、瞬く間に消えていった。

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