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掌編『午前五時』

 始発列車が到着した先に降り立った男は、そこで初めて自分が記憶を喪ってしまっていることを漠然と理解した。対面のホームでしばし待っていれば元の駅に戻ることができるのかもしれない。しかし男は自分の乗車駅を把握していない。手元にあるのは具体的な切符ではなく抽象的なICカードだ。駅員に訊けば正確なことが分かるだろうか。しかし生憎と男にはそれを実行するだけの勇気が無かった。

 だから男は真っ直ぐ歩いて改札にカードをかざし、駅を出た。カードが入っているのは茶色の、年季が入っていると思われる二つ折りの財布で、現金はやや潤沢に準備されているようだった。男は改札前にある支柱に身を預けながら財布の中をまさぐる。小銭入れの中には、小銭ではなく小さな鍵と三桁の数字が記されたメモ用紙が入れられていた。

 外に出た男は自分が尋常では無い眠気に襲われていることに気付いた。始発電車に乗るということは昨晩、碌に眠っていなかった可能性が高い。そもそも男はどこで何をしていたのだろうか。毛玉の纏わり付いたコートやシャツは会社へ通うそれではなく、つまり私用であったと推測できる。頭の鈍痛は過度な飲酒のせいと思える。では、胸を灼く焦燥感の正体は何であろう。

 いずれ男は歩き出した。駅の前は閑散としていて、温度も相まって寒々しい。遠近感の定まらない目線を左右へ走らせると、駐輪場の姿が映った。男は財布の中に入っている鍵がそこに置かれている自転車のものであるかもしれないと思い当たった。駐められている自転車にはそれぞれ番号が割り振られている。男は財布の中にあったメモ用紙と見比べて、それらしい、チェーンの錆びた自転車を引き出した。

 乗ってみると、自重でやや自転車が沈むのを感じた。両輪の空気が十分ではないらしい。パンクに気を付けなければならないと思いながら、男はやけに重たいペダルを勢いに任せて漕ぎ出した。

 とは言え、男には自分の目的地が判然としていなかった。真っ直ぐ進んでも、左右に曲がっても、それは自分にとって正しいようには思えない。引き返すのも妥当ではないし、立ち止まるのも恐らく間違いだろう。警察へ身元照会に伺うべきだろうか。何とも馬鹿馬鹿しい話だ。午前五時の記憶喪失者に、およそ公安を手間取らせるだけの意味などあるのだろうか。

 男は自転車を漕ぎ続けた。凍えるような風がコートを通して身体の中へ病魔のように侵入する。しかしその風は、唯一男に心地よさを与えるものだった。睡眠への欲求を、自らの不安を、吹き消すような風だった。

 自転車はゆっくりと、しかし着実に進み続けた。夜明けを迎えた空が明るくなり、大きな人間がその空を漂っている。人間の影が、男を着実にとらえ続けている。男は自転車を漕ぐ。やがてのぼり坂に突き当たる。男は坂をのぼる。無心になってのぼる。坂を。

 のぼる。

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