掌編『泥の日記』
これは私の日記だ――。
そう宣言したところで、いまいち自信を持てない。何故なら自死を決意したその日に、私は一切の思想を放棄することにしたからだ。にも関わらずこうして日記を書いているのはやや矛盾めいているが、事情が事情だけにやむを得ない。つまり、私は最早常識の埒外に置かれてしまったのだ。
元来、私は自らを記録するのが趣味であった。公に露出させるためのものではない。あくまでも自分の中で秘匿しておくための記録である。故に私は遺言状の類いを書く必要が無かった。私の人生、或いは私の人格は複数冊のノートが饒舌に代弁しているのだから……そう、そのはずだったのだ。
先程、それらのノートが全て盗難された。それは私の死後、私の目の前で起きた狼藉であった。
順を追って説明しよう。といって、尊厳死施設の存在については今更語るまでもあるまい。私が残念なのは施設の名が『モンキーハウス』ではなかったということだけだ。それは、周知の通り、如何にも役所じみた、堅苦しく美学の欠片もないような名称であり、空間である。当初こそ繁盛していたが、尊厳死施設自体が齎した『死の美徳』への安価な値札により、次第に死は価値を失い、皆が生きることを希求するようになった。今日におけるそういった社会の変容はどちらかと言えば健全であると言えよう。今や尊厳死施設の利用は、それそのものが恥ずべき行為であると認識されるようになったのだ。無論……それはそれで素晴らしいことだ。誰だって自分の命を全うするに越したことは無いのだから。
しかし、一部には未だ『死の美徳』にしがみついている者もいた。私だってその一人だ。思うに、私のような人にとって死は唯一の拠り所なのだろう。命の期限と人間そのものの期限は時を異にすると私は信じている。私に関しては、人間そのものの期限が先にやってきたのだ。恐らく、27クラブの面々もそうだった……もっとも、私には彼らほどの才など何処にも見当たらないが。
ともかく、消極的に審判を待つことは、私にとって有意義ではなかったのだ。
施設と同様に、尊厳死装置の仕様をくだくだしく説明する必要はないだろう。即ち、私たちは日常呼吸している空気の成分を少し調節するだけで簡単に死に着地することが出来るのだ。それは最も安全で、かつ道徳的な手段に違いない。
尊厳死の手続きは他の役所仕事と何も変わらない。即ち、窓口に申請書類を提出し、数ヶ月間待たされる羽目になる。私の場合は二ヶ月近く待たされた。私はその間も継続的に日記を書き連ねていた。書くべき事は次から次に思いついた。それらは全てこの世に対する泣き言であり、故に私自身を自死へと追いやるカンフル剤として作用していた。それは、いわば全く醜悪なマッチポンプであったのだ。だが私は一連の行為に満足していた。無論、私が『死の美徳』に酔い痴れていたからに他ならない。
約一週間前に、ようやく申請に対する許可、及び実施の日時を通知する書類が私の元へ届いた。そして実施日の前日、私は最期になるはずの日記をしたためた。それは、私の書いてきた泣き言の中でも最もナルシシズムに溢れていたように思う。
当日の午前十時……乃至はその後一分前後が私の機嫌だった。私はその、道徳的でありながらも無機質な尊厳死装置へ入った瞬間をハッキリと憶えている。私的にも公的にも私は死亡し、あとは流れ作業で肉体が燃え尽きるのを待つだけのはずだった。
そう、私は死を目前にしても狼狽えることなく、綺麗な死に様をイメージ通りに果たせたはずなのだ。だからこそ私は問いたい。何故私は――再び目覚めたのか? 何らかのミスが発生したわけではない。何故なら、私が目覚めたその場所は施設の中ではなく、自室のあるアパートにほど近い草むらの中だったのだ。
視線の先にある灰色の雲から小雨が降り注いでいた。仰臥していた私の背中は今なお泥まみれのはずだ。そう、それはほんの一時間ほど前の出来事なのだ。到底整理できる問題ではあるまい。憮然とした感情を抱えたまま、私はひとまず自宅への道を歩き始めた。この時はまだ私はある種の幻想を視ていた。即ちこれは走馬燈と呼ばれる夢なのではないかと……。しかし今となってはその幻想すらも霧散している。今の私は泥と、途方も無い現実感を背負っている。
この時点で私は既に苦しすぎる懊悩に苛まれた。しかし、更なる奇異が当然の成り行きのように私を刺したのだ。
自宅のドアを開けた瞬間だった。中から飛び出してくる何者かと衝突した。私は思わず尻餅をついたが、相手はやや体勢を崩しただけで、そのまま走り去ろうとしていた。思わず言葉にならぬ声をあげた私に、彼は一瞬振り向いた。そしてこう言い放ったのだ。
「これは、私の日記だ」
彼が手にしていたのは複数冊のノートだった。しかしその瞬間においては、彼の盗難物は些細な問題であるように思えた。私はより奇怪な事態に驚愕していたのだ。私を一瞬見遣ったその相貌、そしてその声色……それらは、疑いようも無く私自身のものだったからだ。
落ち着きを取り戻したときには、彼はもう私の視界から消え失せていた。途方に暮れた私はひとまず自室へと這い入った。やはりと言うべきか、ノート以外には手を付けられた痕跡がない。彼はあくまでもノートだけが目的だった。一体何故か……いや、誰に問うまでもないだろう。私は誰よりもそのノートの重要性を理解しているではないか。
つまり、彼の罪状は『自己の強奪』なのだ。私は私の命の根拠を日記に頼っていた。それが他人……まるで私のような他人の手に渡ってしまった今、私は自己を確立することが酷く困難になっている。新しいノートに幾ら書き綴ったところで失われたものが奪回出来るわけではない。私は私である論拠を失ったのだ。あまつさえ、公的に死したはずの私は……。
そう言えば、まだ鏡を見ていない。これを書き終えたら見に行こうと思う。
頬を伝う泥が紙の端に滴り落ちる。この期に及び、私は改めて問いたい。先程、名も無き草むらで目覚めた私とやらは、過去から連綿と続く私そのものなのか? 彼は……私のノートを得て、私に成り済ますことを画策しているのか? 私の肉体は、精神は、記憶は、一切合切は、一体何処から湧き出てきたものなのか……。
ノートが私の自我を担保していたことを、彼は当然知っていただろう。だからこそ彼はそれだけを盗んだのだ。動機が何であれ、それが齎す結果は私に私を失わせるというものだ。ならば私に打つ手段はあるのだろうか。通報したとして、警察は取り合ってくれるのだろうか。被害者、乃至は告発者である私がただの泥の人形だったとして、その告発は意味を持つのか。私の言葉、もしくはこの私自身は、今や受理される存在なのか否か……。
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