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掌編『たかが愛に負ける小説』

 最後に書き終えたのは、それまでの執筆歴で最も時間をかけた長編でした。そこに詰め込まれたのは僕が生きてきた中で獲得した経験や形質の大部分であり、最後の段落を書き記した時には、もはやこれ以上に書くことなど何もないのではないか、と思ったものです。

 とはいえ、振り返ってみれば僕は一つの作品を書き終えるたびに、その長短にかかわらず、もう次に書くことなどないのではないか、と怖れ続けてきました。それは毎回杞憂に終わり、たとえ書いたものが大作であったとしても、いずれ次に書くアイデアは出てくると片隅では確信していたのです。なにしろ僕はまだ本懐であるプロデビューはおろか新人賞への投稿すらまともに果たせていないのですから。

 しかし、長編を書き上げたあとには脳味噌がすっかり枯れ果ててしまいます。また、一つの物語を仕上げたという事実は、巧拙を問わず容易に休息を許可するのです。何ならその作品を掲げて向こう数年は物書きヅラすることだって出来るでしょう。しかし小学五年で創作を憶えて以来、書かないでいられる期間は半年ももちませんでした。

 気障ったらしいことを言うようですが、僕の場合、執筆作業というのは決して楽しいものではありませんでした。書き始めては、また書き始めてしまったと嘆息するし、書き連ねている途中には、何をつまらない諧謔を捏ねくり回しているのだろうと自嘲するし、書き終えた時にはもう二度と書くまいと決意するのです。僕にとって小説とは宿酔の反吐でした。存分に吐き散らかしてはもう二度と飲むまいと誓い、しかしまた飲んでしまうのです。アルコール依存症の患者から酒を取り上げたからといって症状が改善するとも限りませんし、ともすれば生き甲斐を見失って捨て鉢な行動に出ることだってあります。僕にとっての小説もそのような自己抑制のために働くものでしたし、実利的な意味はなくとも、少なからず人生を保護してくれるツールであるはずでした。特段に宛先もない小説を書き続けてきましたが、さしたる後悔はありません。

 また、小説は僕にとって特定の人間関係を保つための生命維持装置としての役割をも受け持っていました。それはすなわち大学の文芸サークルやインターネットで知り合った友人たちです。畢竟僕が特技と呼べるものはメンタルヘルスやシリアルキラーの知識を除けば小説を書くことしかありませんから、他者にとって僕のアイデンティティは文章に集約されていたはずです。口を開けばつまらないトピックを早口でまくしたてることしか出来ないこの僕が友人たちに……たとえ両手で数え上げられる程度だったとしても……断絶されなかった理由は小説以外に考えづらく、またそれ以外にあると言われても自覚しづらい話なのです。

 最後に書き終えたのは、それまでの執筆歴で最も長い小説でした。執筆にかかった期間はおよそ半年。構想の段階を含めても良いならば数年の蓄積をまとめあげた作品となりました。

 それから二年が経ちました。この二年間で、僕はたった一つの小説さえ完成させられていません。ノートパソコンには数行だけ綴って放置された文書ファイルが溜まっています。先に申し上げた通り、その原因には僕が数年ぶりに遭遇してしまった愛が深く関与しています。

 きっかけは長編を仕上げた直後に始めたソーシャルゲームで開催されたオフ会です。聡い人はこの時点で何らかの異臭を感じるかもしれません。先回って一つ言っておくならば、病んだ果てに異臭を放つ人と僕は磁石のN極とS極であり、割れ鍋に綴じ蓋であり、同族なのです。

 だから彼女の手首に残った無数のためらい傷にも、彼女の鯨飲と喩えるべき酒量にも、歪にねじくれた恋愛遍歴にも、僕は特段に驚きませんでした。学生時代に僕が恋してきた女性はそういった特徴を当然のように持ち合わせていましたし、何なら僕だって同じともがらです。だいたい、精神のどこかが曲がっていなければ大学を卒業してなお小説を書こうなどという気力が持続するはずはありません。縋り付くようにキーボードを叩く姿ははたから見れば立派に異常です。迷惑をかけていないおかげでから許容されていますが、ごく一般的な感性の持ち主に共感されるような趣味ではありません。

 経験値を活かした僕の寛容が彼女にどう映ったのか。或いは格好の獲物であるように見えたのかもしれませんが、とにかく僕たちは契約を結びました。二十五歳。生活能力は低く、僕と同程度。抗鬱剤の副作用で若干太ったのを嘔吐で誤魔化そうとしていますが上手くはいかない様子。まさに、僕にはぴったりの女性です。そして、現実とオンラインを通して彼女と過ごす時間が増していき、僕から小説という臓腑が剥落してしまいました。

 恋人の存在によって執筆が捗らないという事態はこれまでもありましたが、致命的なものではありませんでした。時には相手との連絡を疎かにしてまで小説に没頭するということさえ珍しくはなかったのです。それが彼女と一緒になってから一切の意欲が喪失してしまったのは、ひとえに自分など、たかが知れたワナビーに過ぎないという自覚を、加齢によって強いられてしまったからに他なりません。これではいけないと、一ヶ月に一回ぐらいのペースでワードソフトを立ち上げ、つらつらと書いてはみるのですが、文章にはなっても物語にはならず、すぐに飽きてしまいます。いずれ二十年ばかり、書き続けてきたのですから単なる枯渇なのかもしれません。

 愛というのは筆を折るのに見合った言い訳です。つまりそれを醸成し、家庭へと変貌させられれば、愛は戯言から身分へ転じます。そうなれば小説を志向するような人種と距離を置き、更には勝者として振る舞えるのですからこれほど都合の良い手管はありません。堂々たる社会の構成員となり、夫となり、親となるわけです。自分の時間が確保出来なくなったというのも、むしろ誇りとすら言えるようになるのでしょう。

 ただし、僕たちのような場合はそこまでの道のりが随分と険しいことも事実です。僕たちの結婚願望は極めて曖昧であり、むしろ現状維持を願い続けている節すらあります。病んでいるカップルの、特に男の方は責任を持つということからとかく逃げたがるものです。

 しかし現状を維持し続けている限りは、交際しているという事実すらなかなか他人に言えないものです。彼女が他の男へなびく可能性なんてコロナウイルスに罹患する可能性より遙かに高いでしょうし、僕にだって皆無だとは言い切れません。だから、僕は彼女との関係については一旦秘匿することにしました。これは、普段隠し事の出来ない僕にとって大きな決断でした。誰と付き合おうと、誰が構うこともないのですが、ともかく僕は僕の矜持を不用意に破壊しないためにも愛を表沙汰にしないよう慎重になる必要がありました。

 さて、そうなると問題なのは小説です。彼女に一途となるのはあまりにもハイリスクであるため、僕はこれまでの交友関係にも注意を払わなければなりません。しかし既存のコミュニティにおける僕の存在意義といえば小説しかないのです。新しい作品をコンスタントに出せなくなったら僕は終わってしまいます。一時などは、愛に転向して小説と離別した人々を揶揄していたぐらいなのですから、今更同じ狢になるわけにはいきませんでした。

 ……とはいえ、これは僕にとって、さほど支障なく解決出来る問題でした。何故なら、僕のノートパソコンにはまだ誰にも見せていない掌編や短編、それに彼女と出会う直前に書き上げた長編などが山のように保存されたままだからです。僕が書くペースと、友人たちが読んでくれるペースはどう考えたって合致するものではありませんでした。素人の作品を読んでもらうだけでも気が引けるというのに、月に数編と送りつけていれば、それを目的とした場所ですら空気が読めないと烙印を押され、孤立してしまうでしょう。そのため、それほど出来の良くないと思われる作品に関してはストックしておくことにしていました。今にして思えばそうやって葬られた小説たちが可哀想で仕方がないのですが、こうやって陽の目を見る機会が偶然にも訪れたというわけです。

 僕が書く小説は時代性を色濃く伴うものではありません。だから、過去の作品も西暦や年号をちょっとだけずらせば新作としての張りが出てきます。そういった偽装が読者にとって必要かどうかはともかく、自己暗示のためには避けられない作業でした。つまり、僕は過去の作品で向こう数年、物書きヅラを決め込むことにしたのです。

 最後の長編だって、当時はお蔵入りにしていました。狂気の沙汰みたいな文字数の作品を無闇に押し付けるわけにはいかないと、書き終えた直後、急に我に返ってしまったのです。それを、僕はいよいよ擲つ準備を整えました。これであと一年は何もせずとも見放されずに済むでしょう。

 幸いにも、今のところ露見したような様子はありません。執筆状況を多少やりとりしつつ、あとは沈黙しておくのが上策でした。とはいえ、これは決して僕の嘘が巧みだったわけではありません。無意味な嘘を暴くという作業に、誰も時間を浪費しなかったというだけの話です。

 自作の改変は容易でしたが、新作はついぞ出来上がりませんでした。少し解体してみると、最大の難題は、僕が新しい事物へ興味を注がなくなってしまったことであるらしいのです。新しい文化に触れることを忌避し、新しい知識を仕入れることを怖れ、新しい社会問題に向き合うことがまったく馬鹿馬鹿しく思えるようになってしまいました。そういった一連の現象を総称して加齢、或いは老化と呼ぶのでしょう。しかし本質的には、フィクションに対して使っていた労力を生活に、彼女に、彼女へのメッセージに注ぎ始めただけだということではないでしょうか。

 思いつく構想といえば、過去の作品を上書きするようなものばかり。最初は気付かずに浮かれたまま考えを進めているうちに、それと酷似した展開を学生時代に書いていたと思い至ってしまう。まるで尻尾を追いかける犬みたいに同じところでグルグル回り続ける羽目に陥ったのです。趣味嗜好も、性癖も、筆致も、変わらないどころか凡庸と化していく。過去の跳躍を恥じ入ってしまう。

 何かに中指を立てるために小説を書くのだと心に決めていた時期がありました。中指が折れてしまったら、その時が筆を折る時だと。そうした怪気炎をあげて数年後に出会った愛は、中指をへし折るのではなく綺麗に包み込みました。彼女は小説を読んでくれません。精神を病んで以来、長文を読みこなす気力が湧かないとのことです。僕だって深い鬱状態に沈んでいた時期はそうでした。だから文句をつける謂われはないのですが、考えてみるとそれこそが、これまで付き合ってきた恋人との、最大の相違かもしれません。僕はモチベーションを失いました。しかし、他人に依拠するモチベーションなどにいったいどれほどの意味がありましょうか。

 そういうわけで今の僕は安定しています。彼女との生活に自分自身を見出すようになって、未練のようなものとは訣別していますし、向こう暫くは問題が発生する気配もありません。では何が問題かといいますと、ここまで書いてきた『愛』とやらの一切合切が妄想に過ぎないのに、小説を書く気力だけは湧かなくなって二年が経ってしまったという現実なのです。

 これが妄想ならば小説といって過言ではないのか、というような温かいお言葉をいただけるかもしれませんが、この独言はどちらかというと上司に仕事のミスを質されたさいに飛び出る咄嗟の嘘に近く、とても人様に見せられる類いの作品にはなり得ていないと思います。僕は僕に対して言い訳をしているところです。

 何より僕自身が小説と認めていないのならば、それは小説ではないのです。愛のような重大な動機が……いや、それ自体、自己を慰撫する以上の意義は持ち得ないでしょうが……消失してしまえば、そこに残るのは数多のアマチュアと同様に小説を諦めた男が一人増えたという事実だけです。いや、その事実すら空白のようなものでしょう。

 久々にためらい傷を増やそうと思いました。それすら怖くなって酒に逃げました。壁に向かって死なせてくださいと乞い願っていたらこんな文章が出来上がりました。僕はもう終わったのです。

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