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感動とは懐かしさか

教師であり、画家であり、絵本作家である
安野光雅さんの作品展に母と行った

私は安野先生の『ふしぎなえ』や『もりのえほん』が好きだった
空想からはじまる不思議な絵は、
見開き1ページを何分もかけて
じっと見つめてたし、
文体が無いせいか、
自分で短い短い物語をつくって楽しんでいた
なにより、絵にやさしさがあって
寝る前に眺める絵本にはもってこいの本だった

安野先生の絵本は子どもを
空想の世界へ招待してくれる
それに大人も夢中になる
この作品展で、どれだけの招待チケットを
安野先生からいただいただろう

展示されていた作品の中に『天動説の絵本』(福音館書店)
という物語があった、はじめましてである

今でこそ地動説の時代だが、
星占いや、魔法使い、錬金術師に、さまざまな迷信、
科学的に証明できることしか真実ではない、
なんでも明らかにしてしまいたい、と現代は言うけれど、
天動説の時代は、なんと夢の広がる未知の世界だったのだろうと思う
科学文明によって失われてしまった迷信の世界に憧れを抱く

この世のすべてが明らかになってしまったらどうだろう?
夢見ることはなくなるか?

妖怪を信じていたから、
自然を大事にしないといけない
命を大切に扱わないといけない
そうしないと、妖怪が出てくる

お米には神様がいて、
一粒も残してはいけないということ
そうしないと、バチが当たる

人間には迷信や科学的に証明できないことが必要だ
急いで真実を求めようとしなくてもいいじゃないか
すべてが分かりきった世界は、なんと寂しく、冷たいだろう
神様、真実をすべて知っていたとしても、
どうか私たちにはその真実を隠していてください

もう一つ、心に残った招待チケットがあった
安野先生の故郷である島根県・津和野町の風景画
この作品の横には童謡「春が来た」の歌詞が添えられていた

頭の中で再生される「春が来た」
そしていつか、安野先生の目に映っていた景色を
私が先生の絵を介して見ている

目に浮かばれる涙で視界がぼやけて、
意識が自分のいる美術館に帰された気分だった

帰りの車で、母も同じ絵を見て、感動していたそうだ
「なんで童謡って、改めて聞くと泣けてくるんだろうね」
と私が聞くと、
「昔、自分に誰かが歌ってくれたからだと思う」
と母は言った

私にはおばあちゃんが二人いて、いつも歌を歌ってた
やっぱり、人の声とは偉大だと、改めてわかった

覚えてないけど、おばあちゃんは
私に「春が来た」を歌ってくれていたに違いない

小さいときの記憶は鮮明であることの方が少ない
でも、不思議なことに人間には「潜在意識」というものがあって、
「潜在意識」は人間のもつ素晴らしい能力だと思う

些細なことに感動する人が好きだし、
私もそうでありたいと日々思う
今回の感動を通して、
「感動している」という行為には
その条件として、感動するための「経験・体験」が必要だと思った

「感動」とはどこかで見たり聞いたりした「懐かしみ」であり、
その「懐かしみ」を感じるには「経験」がいるだろう

今、思いつくのが母のお味噌汁といった類のものしか
出てこないが、要はそういうこと

その経験がいつどこで「懐かしみ」に姿を変えるかを
知らないのは私たちで、また知っているのも私たちだ

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