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「学ぶことは人生においてとても重要!」の“学ぶこと”って何だろう?

 変化の激しい現代において、一生涯を通じて学ぶことは、誰にとってもの宿命になりつつある。さらに、その「学び・学習」はもはや学校教育の中だけでなく、仕事、余暇、スポーツなどのあらゆる場面で生起するようになっている。言い換えれば、学校を卒業してからも、新たな知識や技能、教養を身に付ける必要がある。なぜなら変化の激しい時代においては、過去に学んだ知識はすぐに陳腐化し、新しい知識やアイデアを生み出す必要があるからだ。今回のnoteでは、2017年に告示された学習指導要領のおける学校教育が目指す3つの資質能力を踏まえた上で、そこでの前提となる「学び」を学習理論の文脈からとらえてみたいと思う。

学校教育が目指す3つの資質・能力

 2017年に告示された新学習指導要領において、学校教育の中で「育成すべき資質・能力の3つの柱」が明確化された。その3つの柱は以下の通りである。

 上記のように、新しい時代に必要となる資質・能力の育成の1つに「学びに向かう力」が強調されていることは、学校教育の中で学ぶ意義を理解し、学ぶことを前向きに捉え、生涯を通じた学びの基盤を養おうとしていることが示唆される。
 では、“学ぶこと”とは、そもそも何なのか、どういうことなのか。学ぶ意義や何を学ぶのかを考えるのも重要だが、あえてメタ的に“学ぶこと”それ自体は学問の中で、どのように捉えられてきたのか探求しようと思う。

学習心理学の3大潮流を紐解く

 “学ぶこと”を今回は学習と捉えて、学習理論を軸にして探求していきたいと思う。学習理論とは、一般に「学習心理学で扱う学習の諸理論」のことであり、学習心理学には3大潮流がある。つまり、心理学が実験によって人間の心を科学的に解明しようとしてきた中で、心に関する捉え方や研究のやり方が大きく3つの流れに変化を遂げてきた。それを学習という観点からとらえたのが、行動主義、認知主義、構成主義の3つ視点による学習観である。

行動主義の学習観

 行動主義心理学のメカニズムは刺激-反応と強化である。はじめの心理学は動物の学習から人間への応用を目指していたので、頭の中で何が起きているのかはブラックボックスとして扱い、行動に表れる現象のみをデータとして扱った。代表的な研究にはパブロフの古典的条件付けや、スキナーのオペラント条件付けなどがある。ここで一つひとつを紹介することはしないが、行動主義がもとになった、ある考え方で理解していただきたい。それはスモールステップである。

スモールステップ
→最初から高い目標を掲げるのではなく、目標を細分化し、小さな目標を達成する経験を積み重ねながら、最終目標に近づいていくこと

 行動主義は、頭の中の情報処理過程には着目せず、行動に表れる変容のみに着目する。だから行動主義は「学習とは行動の変容」と考える。

認知主義の学習観

 しかし、行動主義だけで私たちの学びを捉えるとある不都合が生じる。それは以下の例である。

Ex) 分数の問題
1/3+1/2=2/5
と子どもが答えたとする。教師から見れば間違いであることはすぐわかるだろう。そこでこう考える、「どうしてこのように答えたのだろうか?」

多分これは分子の1+1=2、分母の3+2=5という考え方で答えたのだろう。つまり子どもは自分なりに考えたのだ。教師から見れば“つまづき”であるが、子どもからしたら自分なりに納得して答えたのだ。だから答えだけ教えても意味がない。

 この事例が示唆するものは、非常に興味深い。つまり、行動主義のように頭の中をブラックボックスとして扱うと、頭の中の情報処理プロセスを無視することになる。そこで、「そのプロセスを解明しよう」という考え方が生じる。

 認知主義心理学は、行動主義心理学がヒトの学習をブラックボックスとして処理し、行動のみに着目していたのに対し、頭の中に情報が入ってからどのように処理されて、どのように蓄積されて、そしてどのように記憶が引き出されているのか、という点に着目した。代表的な研究としてアトキンソンとシェフリンの短期記憶と長期記憶の二重貯蔵モデルは有名である。また認知主義を理解するのにわかりやすい概念として先行オーガナイザというものがある。

先行オーガナイザ
→学ばせたい知識を整理したり対象づけたりする目的で、当該知識に先立ち(先行して)提供する枠組み(オーガナイザ:組み立てを助けるもの)を指す。

例えば、仏教を学ぶアメリカ人大学生に対して予め身近なキリスト教についての知識を想起させ、仏教の○○はキリスト教では△△にあたる。という具合に比較して説明したもの。

 つまり認知主義では、学習を「学習者がすでにもっている知識と新しい知識の相互作用」と捉える。それにより、先の分数の例のように内的なプロセスを分析することで、教育現象をより正確に理解することができる。

構成主義/社会構成主義の学習観

 ここまでで、頭の中をブラックボックスとして扱った行動主義の学習観から、頭の情報処理過程に着目した認知主義への転換を見てきた。その2つで私たちの学習を説明しきることはできない。なぜなら、認知主義のように頭の中の情報処理過程に着目した時、また新たな疑問が生じることになる。それは、「人はある知識を学習するにあたって、全く同じよう理解するわけではなく、理解を自分なりに構築するのではないか?」というものである。

 例えば、この文章で言えば、行動主義と認知主義の理解を僕なりに示してきたが、おそらく読者は僕と全く同じ理解には至っていないだろう。もちろん僕自身も、これらについての参考となる文献を記した著者と同じ理解をしているわけではないだろう。言い換えれば、客観的に同じ知識が頭に取り込まれるわけではなく、各人が自分の中に意味を構成するということである。そのように「知るということは自分の中に意味を構成する」という考え方の認識論を構成主義という。そして構成主義は学びを「学習者が環境と関わりながら主体的に知識を構成していくこと」と捉える。

「客観主義=行動主義+認知主義」に対する、新しい学習観として構成主義

 さらに、他者との交流によって知識が社会的に構成されていくとする、社会構成主義という立場もある。ここでは学習を個人の営みではなく、社会的営みとして捉える点が特徴的である。これを理解するために、わかりやすい概念として、ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」というものがある。

発達の最近接領域
ヴィゴツキーは、子どもの発達水準を、すでに子ども自身が自力で達成できる水準と、自力では不可能だが、大人をはじめとする他者の援助があれば到達可能な水準とに区別し、両者間の隔たりを「発達の最近接領域」と定義したうえで、その領域に適切に働きかけることを教育の課題としてとらえた。

例えば、なかなか解けなかった数学の問題に、先生や数学の得意な友達にヒントをもらいながら取り組んだら解くことができたという経験などである。

このように、社会構成主義は学習を他者との相互作用と捉える。僕たち自身も、上記の数学の問題の例のように、学習が自分1人でなく、誰かの存在と共に成り立つ瞬間を経験したことがあるだろう。

学ぶことは一体何だったのか

 ここまで行動主義、認知主義、そして構成主義/社会構成主義と、学習に対する捉え方を見てきたように、「学ぶこと・学習」とは、非常に多様な見方や考え方があることが明らかになった。どの学習観に立って行動するか、あるいは教授するかに留意する必要がありそうである。少なくとも工業化・産業化の中で、行動主義的な学習観や、認知主義的な学習観による学習は成果を上げてきただろう。しかし、世界には多様な<現実>があり、その1つひとつの<現実>を大切にする社会を作っていかなければならない。それは、例えば環境問題、人種やジェンダーに関する問題等を考えれば、誰もが理解していることであろう。

 そして最も大切なことは、どの学習観に立脚するか以上に、学習者1人ひとりの学びたいという思い、をどれだけ大切にできるかであろう。学ぶ意義や、学んだ先の可能性が掴めれば、学び方は多様であって良いのである。

最後に

 僕は、学ぶことが非常に楽しいと感じている。こうしてnoteを記している瞬間も新しい発見に満ち満ちている。好奇心と探求心は自分を突き動かす原動力である。当然、子どもたちの学校での学びと、僕の大学での学びとは違うし、もちろん僕の学びと、社会人における仕事における学びは違うであろう。しかし、自分の知らなかったことを知ることや、自分のできなかったことができるようになるもしくは、誰かの力を借りてより高度な課題に挑戦する、他者に力を貸すことで他者貢献を行う。そのようなことは、どのライフステージの学びにも共通しているだろう。各ステージでの学びの機会が誰にとっても有意義であり、各人自身が成長していると実感できる、そんな社会にしたいと感じている。

そして、子どもたちに最も伝えたいことは、「勉強することも捨てたもんじゃない」ということに尽きる。

そして人生は続く…

参考文献
文部科学省 主体的・対話的で深い学びからの授業改善
熊本大学 教授システム学ホームページ
・赤堀侃司(2004)『教育工学への招待』, ジャストシステム
・岩内亮一他(2011)『教育学用語辞典』, 学文社
・久保田賢一(2003)「構成主義が投げかける新しい教育」『コンピュータ&エデュケーション』Vol.15, pp.12-18

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