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体が健康で体力が充実していると・・・

体が健康で体力が充実しているとどうなるか。
普通になる。
要するに、当たり前になって別に特別な感慨とか感じなくなる。

ところが、病気はもちろん、病気とまで行かなくても、どこか調子が悪くなると、途端に健康のありがたみ、体力のあることのありがたみを切実に感じる。

似た様なもので痛みがある。
痛みは、感じているときは鮮烈で耐え難い苦痛となって現れる。しかし、痛みがなくなると、あれはなんだったのだろうというくらい、何もなくなる。

それが証拠に、痛みを思い出せる人はいない。
そんなことはないというかもしれないが、よく考えてほしい。たしかに、痛みがあったことは、覚えているだろう。

しかし、その痛みをありありと再体験できるだろうか。
できないはずだ。
いつでも痛みを再体験できる様なら、多分女性は妊娠したがらなくなるのじゃなかろうか。出産は、男には想像できないくらい、それほど痛いらしいから。

こういう根本的な構造があるため、同じ過ちとか、アホなことトレーニングを怠けるとかやってしまう。

そして、それこそ痛い目に遭う。

これを避けるためにはどうしたらいいか。
もちろん理性を使って、これはしなければならない、これはしてはいけないと考え、それに従って行動すればいい・・。

いいのだが、難しい・・・でしょ。
私には難しい。
わかっているけど、やったり、怠けたりする。

でも、流石に病気の直後とか痛い目にあった直後は、怠けないし、やったら悪いことはやらない。
アホなことをやり出すのは、いわゆる喉元過ぎてしばらく経った時だ。

じゃあ、話は簡単だ。
アホなことをやったり、怠けたりする気が起きる前、つまり喉元過ぎてしばらく経った時に、再度、痛みや病気を経験すれば。

と言っても、故意に病気になるわけにもいかないし、第一病気にならないために病気になるなんて、かなり倒錯した状態だもの。

そこで、擬似的に病気状態とでもいうものを作り出す。
例えば、スクワットを片足でやる。
当然(簡単にできる人は、バーベルでも担いでやる)、難しい。

この難しさが、トレーニングを続けておかないと、両足でできなくなるのだと思うことだ。実際、足腰が弱くなると、両足でもできなるし、そもそも歩くこと自体がままならなくなる。

懸垂なんかも同じ。
片手懸垂をやってみて、この難しさが両腕でも難しくなるのだと思うこと。

いや、ゾッとするだろう。
この様にして、病気の疑似体験を定期的に(怠け心が起きた時)やれば、理性なんて当てのならないものに頼らないでも、頑張れる・・・のではないか。

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