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タバコの匂いもサラサラ流れる

窓の外から、毎朝、タバコの匂いが入ってくるようになった頃。誰かが引っ越してきたのかなと思いつつ、換気していた窓を急いで閉めるようになりました。朝、私の窓を開ける時間と誰かの喫煙時間がシンクロしてしまってました。

しばらくすると、近隣の人が見やすい掲示板に「外でタバコを吸わないでください。窓からのタバコ臭を迷惑されている方がいます」といった張り紙が貼られるようになりました。

朝のタバコの匂いに気がついたら、もう誰かが訴えていて、すぐに誰かが張り紙を貼っているような迅速さ。それで、すぐに匂わなくなるわけじゃなかったけれど、それはそれで効果がなければ、すぐに引っ越すんだろうなと思いました。とにかく、いろいろ早いし粘着しないし、サラサラと流れています。

それと対比して、かつて学生のころ。

毎朝6時台の電車に乗っていました。通勤通学の車内は、知らない人と密着しなければならない苦痛な時間。同じ学校出身の仲間で固まって、最初の日だけ一緒に登校したのだけれど、一人が吐くほど気分を悪くしたくらいの乗車率でした。慣れない電車の雰囲気と匂いと何かが、彼女を不快にしました。

完全に吐き戻してしまった彼女と一緒に途中下車した私は、駅のホームのプラスチックの椅子に腰掛けて、一緒に一息つきました。そのあと「ありがとう。大丈夫だから先に行っていいよ」と言われました。彼女は、運動神経抜群の宝塚男役タイプのしっかり者。普段からひ弱で、朝礼のたびに貧血で倒れるタイプではない。そんな人が吐き戻すほどの気持ち悪さだったんだと思っています。

その匂いの原因のひとつが「タバコ」だったと思います。

当時は、車内・駅のホームでの喫煙が許されていました。学校も職員室は煙っていました。家の中はもちろんです。どこへ行っても逃れられない匂いだったのだけれど、電車の中だけは密度が濃厚でした。もう身内の親でさえ「こんなに顔を近くで見たことないよ!」という距離で匂ってくる、誰かの口の中にあるニコチンのどろどろ臭が強烈でした。呼吸をしないと死んでしまうのだけれど、全神経を我慢に割り当て、呼吸を極限まで少なくしないと耐え切れないほどでした。そういう時間を通して、大量のエネルギーを使って学校へ通いました。毎日ヘトヘトでした。

タバコの煙で忘れられないのが、ある駅で整列乗車の時のこと。

電車が来るまで待っているホームのことです。風上に喫煙者がいて、背広をきた中年男性でした。3本、4本と。イライラしているのか、タバコを吸い続けていて、その煙が私の顔に直撃していました。目がしばしば沁みるほどです。そこから立ち去ればいいのにと思われるかもしれませんが、できませんでした。

ひとつは、その列から外れて並び直すと、別の列の一番後ろにつくことになるので、次の電車に乗れない可能性があったからです。それに結局、電車が混雑しなくなるまで待たないのなら、その繰り返しになるのです。

もう一つは、立ち去ることがあからさまに思えて勇気が出ませんでした。タバコの煙を顔面直撃でも、喫煙者の主流煙より有害物質が含まれている副流煙を100%吸い込んでいても、受動喫煙という概念すらない時代でした。

しばらく我慢していましたが、そう、しばらくと言っても5分とかではないです。もっと長い時間。気がついてくれないかなと僅かな望みを持ちながら、喉がイガイガするので咳き込みました。すると、振り返ったその人は、イライラいをぶつけるように睨みつけて、わざと私の顔に煙をフワーッと吹きかけました。何度か。それは悪意のある煙でした。

意を唱えると、その内容よりもまず生意気であることで制裁を受けるという感覚が世の中に蔓延していたと思います。今だって、場所が場所で人が人なら、まだあることでしょう。

今なら、我慢しなくていいのに。その場を立ち去ればいいのに。と、自分でも思いますが、それができるような空気感はありません。それに、そういう種類の我慢が家の外にも内にもいっぱいあって、女というだけでもいっぱいあって、うっせぇわっ!と言っても許される境目や限度が見えなくて、困惑したまま電車に乗るような学生生活にヘトヘトでした。

時代が変わって、しだいに車内での喫煙がNGになり灰皿が撤廃され、駅のホームで喫煙コーナーが仕切られ、勤務先の屋内喫煙がNGになり、喫茶店ですら路上ですらNGになっていきました。天国かと思いました。何十年もかかっているけれど、一筋縄ではいかないことです。抵抗勢力もあったと思うし既得権益もあるわけだし、よく変わったなと思います。

それなのに、大失恋した後に知り合った人がカッコよくて一目惚れしたとき、直後に1日60本以上の喫煙者だと知りました。撃沈しました。どう頭をこねくり回しても、ムリだなと。

せっかく世の中が、やっと世の中が、私と同じ感覚でタバコの煙を退けてくれているというのに、あえて今、自らピンポイントで最もプライベートな空間にタバコの煙を引き寄せるなんて。そんなことできませんでした。相思相愛になっても一緒に居られないし、早晩お互い嫌いになってしまう。タバコの煙と匂いが邪魔をして、これ以上は近くに行けないと思いました。

彼もそうでしたが、スマートな喫煙者は多いです。

今の時代はマナーのない喫煙家はかつてに比べたら激減したと言っていいし、仕返しに顔に煙をふきかけてくるような人と会うことがなくなりました。まぁ、ある人にはあるというか潜んでいる、そんなことが平気でできる感覚が、そうそう簡単に消えて無くなるとは思いませんが、変化した社会常識が横暴な態度を抑圧してくれているのでしょう。

だから、タバコの煙を燻らす姿がかっこいいと思ったことは少なくて、映像としても記憶に残っていないのです。あの煙が漂うと、顔に吹きかけられた不快感と、電車の中の誰かの口の中でヤニがぐにゅぐにゅに成り果てた末の匂いが、至近距離から真っ先に鼻を刺激してくるようなトラウマぶりです。

健康診断で毎回、喫煙習慣について尋ねられる欄がありますが「はい」に丸をしたことはありません。飲酒と同じで嗜好品だと思っています。


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