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連続でまったく同じおみくじを引きました

昨日はお礼参りに行きました。社会の裏側の話ではありません。ここのところ勉強した成果が、自分の力量をしのぐ追い風のおかげで形になっていると思われたので、立春明けのご挨拶も兼ねて神社へ参りました。

がんばってもダメなときはダメだった経験が豊富な私は「これは自分の学力だけではない」を強く感じました。

自分の学力じゃなかったらナンなのか。

他の誰かの学力だとしたらそれはカンニングになってしまうけれど、そうではなくて。回り回った何か、どこかで貯めた力がうまいこと配分されて、試験会場に流れ込んできたに違いないと思ったわけです。その配分を、私は自分でできないから、どこかにお礼したくなるわけです。そう思いたくなるくらい足りなかったと思う、そのときの学力。

そう、前回の試験会場でのことです。
私は試験会場を最後に出ることがあります。ギリギリまで見直したい派なのです。ところが、試験時間の半分を過ぎると退場が許される場合が多く、気がつけば最後まで残ってしまうことが重なりました。同じような人がいる場合は助かります。私は周囲を良く見ていませんが、私が席を立つとその人も席を立って、最後まで一人というわけでもなく済みます。気づかってくれているわけではないでしょうから、助け合って居座る感じです。

なぜ試験時間を最後の最後まで時間を使おうとするのかというと。

学生の頃からケアレスミスが多いからです。見直しを何万回もしたい。あと、全体をみるとか、俯瞰的に眺める傾向が強いせいか、試験問題を全部見てから解かないと落ち着きません。

本の読み方も、目にするものを順に並べてみると、

タイトル ▶︎ 目次 ▶︎ 奥付・著者歴 ▶︎ 後書き ▶︎ はじめに ▶︎ 興味のある項目から先に

だいたい、こんな順です。

その全体を見たがる傾向は試験問題を解いた後も影響し、写真に撮るように見納めようとするのです。それはもう試験問題の構成を読み解き始めるに近いです。それが仕事になったこともあるくらいプロ級です。それを、自分が試験を受けている立場のときもしてしまうのです。あれ?趣味なのかな?

今回も、見直しで正解率を上げていました。自己採点して、見直しで書き換えなかったら不合格だったかどうかを検証した結果そうだと分かりました。これやってみると、面白いですよ。運命の分かれ道はあそこか!っていう感じが。


参拝の帰り際。
一年に一度のおみくじを引きました。

へーへーと改まった気持ちで眺め読み進もうとしたら、隣で女子たちがキャッキャと騒いで喜んでいる大吉パワーに圧され影響されすぎて、書いてあるおみくじの中身がまったく頭に入らないので家に帰ってゆっくり見ることにして、その場を立ち去ります。

帰宅後、もう一度おみくじを開いてゆっくり見直しました。持って帰るくらい悪くないんです。そして去年と同じように手帳に挟んでしまおうとしたとき、去年と同じおみくじを引き当てていることに気づきました。初めて見るように読んだけれど、なんとまったく同じ内容。2年連続で同じ内容のおみくじを引いたのは初めて、いや、同じ内容のおみくじを引くのが初めてです。

自分忘れてるやろ?
せっかくやのに忘れてるやろ?

ガネーシャの声が聞こえてくるようです。

勉強は根幹から立て直すとしていますが、これは何かあるなと思いました。そこに書いてあることが起きそうです。心してアドバイス通りに過ごすことにします。


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