個性を社会が潰そうとしてる。人間はわからないものが怖い。
僕が小学生の頃、同じクラスに障害を抱えてる友達や日本語がわからない外国人もちらほら同じ教室で学んでいた。
今はどうだ。学校の状況や仕組みは昔と少し変わったらしい。支援級クラスは当たり前に認知してる時代。
僕が問題だと思うのは、個性の幅が狭まってること感じる。どの場面で感じるか。
個性と障害の境目はどこか。障害の幅が広がったのは確実だと思う。ADHDやパニック障害やうつ病など、精神疾患としてよく耳にするだろう。
本人次第なところもあんじゃないのか。周りからみて障害だと言われたとする。でも自分はあの時はああ言う気分だったとかその人が嫌いだからそうしたとか理性の上での行動。
周りから思考なんて読めるはずがない。
うまく書けないが伝わるだろうか。
本人が苦しんでる中であれば病名を与えられほっとしたり、同じ人がいて安心する人もいる。
本人は楽しんで生きている中に病名を提示されレッテルを貼られた時、個性をつぶされる瞬間の一つみたいな。
科学的に昔分かったことが教科書に載り教育されていく、でも時代は変わるし時間は進み続けるし。常識はかわる。
スマホを何時間もみて動かない人。昔の人が見たら障害よ。小さな機械を永遠見て触ったり。知らない人にとって異様にうつる。
教育にも大いに影響してるだろう。子は親を見て育つ。親がスマホを無言で見続ける姿をみて育った人はまだ少ないんじゃないか?
持論は子供がその場にいる時は親は子供の相手となり愛情を注ぎ、子供を育てる。
子供ながらに考えると思う。僕よりそのスマホが大事なの?やスマホは人を動かなくさせるんだなーや大人になったらこうなるのかなとかとか。
常識から少しでも外れてる行動や言動してる人を。それを病気ではなく個性と呼びたい僕。
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