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推し燃ゆに伴う雑記

「推し」という言葉が身近に使われ出したのはAKBの「推しメン」という言葉からだったように思う。といっても身近にガチガチのファンがいたというわけでなく、あくまでおじさんたちが世の流行に乗っかろうというニュアンスで使っていたに過ぎない。握手券ほしさにCDを何十枚、何百枚買う、そういうことはニュースで聞きはしていたが、実際にそういう人と会うことはなかった。

なにしろ体育会系の男ばかりの営業の会社だったので、そういった活動をしていた人がいたとしても、表だっていう人は少なくともいなかった。

しかし転職して穏やかな会社に入ってできた部下の子が「推し」を持っているタイプの子だった。

最初のうちはこの子の趣味・嗜好までは知らなく、ただただ「(好意的にいって)あまり仕事ができない子」だった。割合に素直で、コミュニケーション能力に難はあるものの、なんとかかんとか一緒に仕事を頑張っていた、つもりだった。

しかしそれでも事務処理のミス、お客様との約束忘れ、店舗の鍵の紛失、バイトからのクレーム・・・・・・とミスが積み重なっていった。

このあたりから「もう自信がない」「向いていない」「辞めたい」というこえが本人から上がってきて、それと同時にこの子の「推し活」というのも分かってきて、バイトの子からこの子の仕事への態度のクレーム(居眠りしていた・ずーっとスマホを見ていた・寝癖が酷いまま出勤してきた・・・・・・などなど)をよく耳にするようになっていた。

早い話が推し活のために徹夜したり、仕事中にSNSに興じていたり、といったところらしい。

仕事を教えたり、一緒に効率化の仕組みを作ったりと努力はしたものの、ロバを水辺まで持っていくことはできても水を飲ませることはできない、という格言通り、そもそも本人の仕事への熱意がなければどうすることもできなかった。

ただ、本人としては「仕事を頑張りたい・評価されたい」という気持ちが無かったわけでは無い、と自分は思っている。ただ、それで推しのための時間をセーブして、仕事に向ける、というのは到底できないもののようだったようだ。

しかし、そんな様子にもかかわらず自己評価は高い子で、結局自尊心が「仕事をできない自分」を許せないようで、メンタル的にも落ち込んでいった。

そんな様子の部下の子の面倒を見つつ、自分としてはどうしてそんなにこの子が「推し」に熱意を持てるのかが分からないでいた。

結局その子は退職して、今はもう連絡も取っていないけれど「推し」とはなんなのか? というのが自分の中にわだかまりのように残っていた。

そこで令和に「推し燃ゆ」という作品が芥川賞を取り、ずっと気になっていてやっと読めた。

作品自体は素晴らしいものだった。喪失の文学の王道をいく、現代の青春小説だった。

それと同時に、ここまで推しに全てを明け渡してしまうということがどういうことなのか? 偏執的な熱量を持った文体は、そのことを理解はさせなくても体感させてくれた、ように思えた。

楽しい、最高だ、尊い、と叫ぶ姿はどこまでも痛々しく、血を流すようだった。

選び取った現実のみを現実とする姿は宗教的恍惚ですらある。

そんな風に見ている自分だって、他の人から見れば愚かな現実の一側面に縋っているように見えるのかも知れない。

本を読んで音楽を聴く、それだって得体の知れないものと思う人がたくさんいるのだ。

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