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何不自由のない暮らしがしたい

『何不自由なく』という言葉がある。
なかなかに凄い言葉で。
お金持ちの人や、愛情に包まれて育つ子供に使うのが多い言葉かと思う。
そんな単語で形容される生活に憧れる。

では、自分の暮らしはどうだろう? 
朝起きれば水道からは水が出て、洗濯して清潔な服を身に纏うことができ、家族がいて、犬がいて。車に乗って毎日赴くべき職場があり、仕事がある。体に目だった不調は少なく、自力で歩いてものを考えられる。
そう考えれば何不自由ない暮らしと言える。

でも、新しい車が欲しいと思っても買えないし、寝室のエアコンも故障したままそのままだ。面白そうな新刊もバタバタと興味の赴くままに買うこともできなし、仕事だって上下関係があり、気の合う合わないもある。結果も思うようには出せないし、体もあちこちガタが出始めている。病気のせいで以前は当たり前にできていたことができなくなって、かなり制約が出ているし、自尊心にも影響がある。
そう考えると不自由というか、制限がある。

結局の所コインの裏表のようなもので、「あるもの」にフォーカスすれば満ち足りるし、「ないもの」にフォーカスすれば手に入らない不自由さを味わうことになる。

とはいえ世の中には貧困の中で苦しむ人、国を失った難民の人たちもいる。
年収200万を切るシングルの親と子一人の世帯など、その生活は、例えば子どの修学旅行だけで月の収入のかなりの割合を占めることとなる。(厚生労働省「2019年国民生活基礎調査の概況」より)
自分の子供もつい先月修学旅行に行ってきてお小遣いが3万弱と「ずいぶん高くなったものだ」くらいに奥さんと話したけれど、貧困層の家族からすれば笑い事では済まないこととなる。
周囲の同級生が何も考えずに何万もの小遣いを持ってくる中、自分はそういうお金を持っていないというストレスはとてつもなく強いものだろうなと思う。

貧困は連鎖する、ということは社会的に証明されている。
教育を受けられなければその先のキャリアの選択肢も必然的に狭まるし、収入の確保が難しい。そしてのままその子供がまた親となり、収入の少ないまま・・・・・・という連鎖がおきている。そしてその階層化はより強固に固定されつつある、ように見える。

多分ずっと「ないもの」にフォーカスせざるをえずに育ってきた子供達は不自由というものを鎖のように感じて、その鎖の重みの下敷きとなるか、暴力によってその鎖を砕こうとするか。
もちろんなかにはそういったサイクルの中から抜け出して成功者となる人もでてくるだろう。
でも誰もがうらやむような成功者は、常に一握りの存在しかいない。
いずれにせよそういった鎖の子供達の存在によって、社会は私たちに「不自由な暮らし」を強いるだろう。

「私」の「何不自由のない暮らし」を担保するものは「私たち」の「何不自由のない暮らし」なのだ。
結局の所。


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