STEAM教育の「A」について
STEAM教育についてリサーチしていたら、たまたま「STEAM教育力」を 育成する「総合的な学習(探究)の時間」を基盤にしたカリキュラム開発とハイブリッド検証シ ステムの構築」における研究成果をまとめたレポートを見つけ、目を通してみました。
中国や韓国、フランスでのSTEAM教育の現状について紹介があったり、東洋大学の学生さんが「総合的な学習の時間」について実際に取り組まれた事例について紹介があったりと、全体的にとても興味深く読ませてもらいました。
その中でも特に気になったのが、「STEAM教育の「A」についての解釈」です。
東洋大学の角谷教授、孔教授のご両名からアートについての解釈が紹介されていたので、それらをここでも紹介する中で、私見を述べたいと思います。
アート(芸術)としての「A」
まずは、角谷教授のご講演の中で述べられていた観点からご紹介します。
こちらは、「A」を「アート(芸術)」と捉える見方です。
ただし、いわゆる理系科目(STEM)と並列に、単にアートという”単元”を加えるということではなく、アート(芸術)に求められる思考のエッセンスを実装するというイメージで語られていました。
アート思考、つまりアーティストの思考の特徴として、2点挙げられていました。
問題提起
自己起点
無から有を生み出す「問題提起」の思考
1点目の「問題提起」というのは、「個人の独創的な考えや視点でもって社会や人間の在り方などに潜む問題や課題をえぐり出す」という活動がアーティストに特徴的な点で、これはすでにある問題をどう解決するかという思考や活動とは根本的に異なるという視点です。つまり、無から有を生み出すということです。
これまで誰も気づかなかった問題点を指摘するうえでは過去の成功事例やパターンは役に立たないということから、「問題提起」する上では「挑戦」という要素も派生的に求められると述べられていた点が印象的でした。そして、それこそが過去のデータに依存して動くAIとは一線を画すものだと語られていました。
あなたのWillは?「自己起点」の思考
2点目の「自己起点」というのは、アーティストは「自分がこの社会や人間の在り方などをどう見て評価しているのか、自分がそれらをどうしたいのかを大胆に考えることが促される」ことに由来する思考の特徴です。
「自己起点」は「自分本位」という風にも置き換えられるので、周囲の理解を得るために正当性の獲得に向けた努力が重要になってくる、つまり、オリジナルのアイデアを他者に納得してもらったり、賛同してもらうための努力が重要になってくるという視点も大変興味深いものでした。
このように、STEAMの「A」というのを、アーティストに求められる思考パターンの実装と捉えるというのが、角谷教授が講演されていた第一の視点です。
リベラルアーツとしての「A」
一方、孔教授からは韓国のSTEAM教育についてご紹介される中で、韓国では「STEMを除くすべての教科は”A”と扱われている」と話されていました。たとえば、人文社会、国語、社会、歴史などといった科目です。
これはまさに、韓国のSTEAM教育においては「A=リベラルアーツ」と捉えられていることを示唆しています。
リベラルアーツは「自由の技術」ということですが、平たく言うと「物事を多面的に捉えるための技術」だと解釈しています。そのあたりの詳しいことはこちらのブログ記事を参照ください。要するに、いわゆる理系科目だけのSTEMのみでは実際に技術を社会実装する上では不十分で、その他諸々の人文社会的側面への造詣の深さも求められるということでしょう。
・・・で、結局「A」はどっちなの?
STEMの社会実装にはアート思考もリベラルアーツの素養も必要
ではSTEAMの「A」は結局のところ、アートなのかリベラルアーツなのか、どちらなのでしょうか。
せこいようですが、答えは「どちらも」だと言えそうです。
この東洋大のレポートを読む前は実は、先ほどのブログ記事で紹介したように、私自身は「A=リベラルアーツ」のみだと信じて疑いませんでした。
それは、理系科目のSTEMだけでは不十分だからといって、そこに単に単元として「アート」を付加させるというのは、なんというか、とってつけた感と、世の中の流れに迎合している感が拭えなかったからです。それよりは、STEMを社会実装するにはリベラルアーツの素養が必要だという方が、本来のSTEAMの思想にも合致しているし違和感がない。
ですが、あくまでアート思考のエッセンスとしての「問題提起」と「自己起点」が重要なのだということであれば、それはその通りだと思います。何か技術を社会実装しようとする際には、STEM側からの”ロジカルな声”に耳を貸すだけでは道が拓けないことが多いというのは、技術に関わられた経験がある人ならなんとなく実感があるのではないでしょうか。
VUCAの時代の意思決定はロジカルには導けない
たとえばある企業が、世の中に事例のない新製品の開発に本腰を入れて乗り出すのか否かで二の足を踏んでいるとします。よくあるのは、「将来的にその技術が世の中に普及していく蓋然性はどうなのか?」「売上は将来的に伸びていく見込みはあるのか?」といった会話です。
しかし、世の中に先例がないことを、過去のデータに即して考えてみたところで、100%の答えなど導けるはずもありません。
世の中に先例がないところに道を拓く上で必要になってくるのが、「問題提起」であり「自己起点」です。
「世の中の○○は問題だから(問題提起)、●●をやろう/やりたい(自己起点)」
とこういう感じです。
問題を見出すためにはリベラルアーツの素養が必要
ここで、世の中の問題点を見出すために必要になってくるのがリベラルアーツだと思っています。
よく社会人研修なんかでも言われますが、「問題」の定義は「理想と現実のギャップ」です。何をもって理想とするかは、多分に自己本位的な観点が必要ですし、世の中の事象のさまざまな側面に通じている必要があるでしょう。そこで、リベラルアーツが必要になってくるのだと思います。
「審美眼」を養うこと
そういうわけで、STEMをベースとした技術を社会実装していくためには、リベラルアーツの素養をベースとしたアート思考(問題提起、自己起点)が必要だということです。
問題提起のためには、何を以て理想とするかを見抜くために世の中の事象のさまざまな側面に通じている必要がある。そのためにリベラルアーツが必要だ、と書きました。
「何を以て理想とするかを見抜く」眼を養うことは、「審美眼を養う」ことと置き換えてもいいでしょう。
つまりリベラルアーツというのは、審美眼を養うための素養だというのが私の個人的な解釈です。
リベラルアーツを学ぶことで審美眼を養い、何を以て理想とするかのモノサシを自分の中に築き、それに基づいてアート思考を以て社会に対して問題提起し、STEMの技術で世の中をより善くしていく。
これが、STEAM教育の目指す姿なのではないかと、私は思います。
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