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ゆたかさって、誰のものさし?

こんにちは、ズボラで短気で面倒くさがりな「よんもじ」です。
今回はお題「ゆたかさって何だろう」についての一個人としての想いを書きます。

「ゆたかさ」を考えたとき、私はあらゆる事が自分の思い通りに、欲しいままに叶う状態を連想しましたが、自分自身にとってのゆたかさはそうではないな、と思いました。

と、いうのも、あらゆる社会環境が想定どおりに回らなくなって、できないこともそれなりにあった自粛期間が、正直私にとっては、普段よりストレスがなく生きやすかったからです。

↓つい先日のnoteはこちら

この文章内で、私は自身の生活スタイルを「低空飛行時々ロケットエンジン」と書いています。低空飛行というのは、今あるもので粛々と暮らすことや最低限の人付き合いやモノ持ちで生きるような状態のこと。それに、冒頭でも書いた通り私はズボラで短気で面倒くさがりなので、そういう性格についても言えることかな。そして、時々ロケットエンジンというのは、好きなことはいくらでも、それこそ寝食を差し置いてでも優先することから、この言葉を使いました。今でこそ、この生き方がしっくり来ていますが、そうした生活になったのは生まれつきのものではなく、一年とちょっと前に旅先で大怪我をして、最低限のモノで暮らす、いわゆる「ミニマリスト」の生活を余儀なくされたことがきっかけで、でした。

このnoteを始める前に立ち上げたブログでも、そのことに触れています。

↓ミニマリストになったきっかけの詳細はこちら

最近はネットショッピングをよく利用するため、またモノが増えきていますが、少なくとも旅先での事件が起きる前よりは、思考もモノ持ちも人付き合いもシンプルになって、生活していて「前より自然体になって、生きやすいなー」と感じています。

それまでは、「あればあるだけ良い」と思う節があって、アイデアを出すための知識の引き出しとか、かばんとか、人脈とか、たくさーん得ることにばかり目がむいていました。

でもね、結局きもちは最後まで満たされなかったんです。

ゆたかであると定義されてもおかしくない生活のはずなのに、そんなことないって、どういうことだ。

そんな、いまいちゆたかとは呼べない、いや、呼べても納得がいかないなかで、ヒトもモノもコトも、身体的都合から制限がかかったが故に縮小した結果、なぜか心がゆたかになった。

ゆたかでないと定義されてもおかしくない生活のはずなのに、そんなことないって、どういうことだ。

「・・・あ、ゆたかさって、何かを所有することじゃないんだ」

って、その時気付きました。

気付いてからは、時々ロケットエンジンの性が出て、色々と捨てに捨てまくって、「捨てすぎたかな・・・?」と後悔しているアレコレもありますが、結果的に、9割がた捨ててオッケーなものでした。

というか、ゆたかさって、そもそも誰のものさしだったんだろう?

それはおそらく、世間体とか、近しい人の考えとか、妙なプライドとかの集合体なので、人それぞれ。な、はずだけど、なんとなく、さっき書いたように「所有」がゆたかさのステータスとしてはまだまだスタンダードなんじゃないかな。

でも、「自分は案外所有してなくても生活がまわるぞ」って気付いたら、所有によって誰かに評価されるとか、認められるとか、かなりどーでもよくなりました。

あらゆる事が自分の思い通りに、欲しいままに叶ったとしても、果たしてそれはゆたかと呼べるのだろうか。

だって自分が持っててゆたかになれなきゃ、ぶっとい金塊だろうが、コネだろうがなんら価値がないでしょう。

今はこの一年と少しで残った元々所有していた色々なモノの1割と、すこーしずつ今の生活にフィットするようなものを収集して、細々と、最低限の力を使って生きていますが、これはこれでゆたかだと思えるんだよね。

負け惜しみとかじゃなくて、本当素直に、「あ、意外と色々なくてもいけるし工夫もできるし、これはこれで楽しめるんだなー」と、生活環境への自身の適応能力の高さに自信が持てるようになるくらいです。

だからこそ、「ゆたかさって、ゆたかであることだけじゃないんじゃない」と今のわたしははっきりと言えます。

ゆたかでないことも1つのゆたかである、なんて言葉上では矛盾でしかないけど、現に自分がそう実感しているんだからそうとしか言えないよなあ。

最後に、自粛期間を振り返って、先日の投稿の気持ちも絡めた文を載せて、終わりにします。

では、有縁再見!

・・・・・・・・・・・・・・

このひとつきは、いままで生きてきたなかで、
いちばん生き易かったな。
明くる日も滑車をまわす、
小動物のような時間が止まったのがわかった。
私に必要だったのは、加速装置でもなければ、
ましてや、絶命装置でもない。
ただただ、これまでの人生に、
赦された停滞時間だけが無かったのだと思う。
だからこそ、活動が著しく止まった世界自体、
新鮮で、あろうことか細々とした生活が善で、
あたらしい生き方のスタンダードになる事が、
おっかなびっくり、嬉しいのだといまは思う。
だからどうか、この平穏を一個人の大切なものとして、
認められずとも、せめて、存在だけは認知してほしい。
賑やかであけっぴろげで大声で、輝いている事のみが、
生きていることの証明だなんて思わないでね。
淡々と、口数少なくインドアに、最低限の付き合いの、
生き方をする存在も人間です。

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